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I should define and design the line of the world with delightfulness at Y-GSA.
by tsujitakuma
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2010年 02月 05日
LRAJ2010の予習
明日に迫ったイベントLRAJ2010。
主催者の一人、藤村氏と比較的近い立場で彼の熱意を感じている筆者も、今年のイベントには期待している。し、裏方として参加予定である。
成功の一助になればと想い、観客の事前リテラシー上昇に寄与することと自分自身の思考の整理も兼ね、本稿を記すことにしよう。

<藤村氏からの提示読書リストのまとめ>
・思想地図vol.3藤村論文
不純物の投入を純化作業として組み込む=超線形設計プロセス

・ANY 白本巻頭論文
形式が垣間見えること=日本的さび=形式の純度が保たれていること
形式としてのデミウルゴス、形式至上主義=磯崎新

・空間へ
プロセスプランニング論=可能性洗い出すプロセス=外部化するとプロセスの開示=切断をなくすとウェブシステムのプロセス

・思想地図vol.3巻頭シンポジウム
ウェブ⇔建築の決定的な差異=切断の有無。
(60s建築→ウェブ)
パタンランゲージは理論構築として(形式、メタ)としては有効ではあるが切断には不向き=ウェブには向いている⇔アジャイルソフトウェア開発
(ウェブ→ゼロ年代後期建築界)
建築をウェブに近づける→建築における切断を無効化する=超線形設計プロセス(プラクティカル)、プロセスプランニング論(メタ)

濱野氏の立場=切断のないウェブで実験して現実に切断のないように投入したらいい。

基本的な構図=
年寄りはそんなことは昔から言われている、煮詰まっている攻撃。
いやいや実際にウェブがあるかないかの差異はでかいので、有効に使いましょう。という若手。


<議論予測>
[アーキテクチャを建築へ]
「アーキテクチャ」という言葉は間違いなくたくさん頻発するであろう。それを建築へどのように有効に投入するか、が焦点となるはずである。

建築の主なプロセスは
1.亀裂発見→2.形式生成→3.社会性投入→4.身体性投入
と表される。もちろん、こんなに明確にそれぞれのフェーズが分かれているワケではないし、それぞれはもっと密接に関係しているし、順番も入れ替わる。
それぞれにアーキテクチャを足してみよう。

・亀裂の発見+アーキテクチャ=ランダムネス
→藤本壮介、セシルバルモンド

・形式生成+アーキテクチャ=自動生成フニャフニャ幾何学アルゴリズミックデザイン(意思の排除、形式(言語)純化作業)
→柄沢祐輔、磯崎新、酒井、中山英之(振る舞いとして)、松川昌平

・社会性投入+アーキテクチャ=プロセスの開示(意思の排除、実現可能性担保=不純物投入作業)
→藤村龍至、dot、古谷誠章、連勇太郎、東浩紀(一般意思2.0)

・身体性+アーキテクチャ=環境管理型(意思の排除)
→東浩紀、建築界からの実効的提案は筆者はまだ知らない

[LRAJ2010での展望というか期待]
意識的に各フェーズごとにゲストが設定されているので、見せるべきは1-4の相互関係に尽きる。
今はそれぞれが独立して完結している。アーキテクチャの概念によってカテゴライズは出来るが。そこで止まっている。ここまでウェブ概念を相対化出来てきたのであれば、相互にどのような関係性を担保できるのかを議論して欲しい。そして我々に、アーキテクチャを建築へ投入することの可能性を見せて欲しい。既に相対化は終わっている。
例えば、すべてのフェーズにおいてアーキテクチャを投入するとどのような具体的良いことがあるのかを提示するだとか。
セシル+磯崎+藤村+東=?の具体的な可能性まで見せて欲しいですね。少なくともTEAM ROUNDABOUTはそれを意識しているはずなので、観客もそこら辺を期待値として持っておくと基準として楽しめそうである。

個人的には、なぜアーキテクチャを投入したいのか、そこを知りたい。どんな可能性を見ているのかはだいたいわかっているつもりなのだけど、なぜその可能性を見ているのかはよくわからない。
そこにコンピュータシステムの台頭があったから、現代性を表しているから、という一般的な理由ではなく、建築界あるいは社会全体が「ウェブに頼っている」のは何故か、そこまで煮詰めていただきたい。

要するに、当然ではあるが、アーキテクチャという形式に対する、亀裂の理由と最終成果物を知りたいのである。
# by tsujitakuma | 2010-02-05 14:40 | exhibition | Comments(0)
2010年 01月 31日
「「建築」/建築(物)/<アーキテクチャ>または、あらためて「造物主義」」に関する考察
磯崎新と浅田彰による書籍「ビルディングの終わり、アーキテクチャの始まり」における巻頭論文「「建築」/建築(物)/<アーキテクチャ>または、あらためて「造物主義」」を自分なりに翻訳。

<現在に至る歴史(社会)>
68年の大文字の建築の崩壊→89年冷戦崩壊+ITの普及+キャピタリズム蔓延
<現在に至る歴史(建築)>
自己言及的な批評=解体→メタはもういい、気軽にマウスクリックだけでいい
→建築はどんどんアイコニックに、表層的に。わかりやすく、消費されやすくなった。目立てば、高ければ実現する。あるいは建築はウェブ空間に「アーキテクチャ」として残存。

<ブルネレスキとパラディオに希望を見出す>
ブルネレスキは現場で建築を作った。→安易な具体化を避け、亀裂(形式のきっかけ)と直接向き合い、ひたすら反応していく。
「未知のままの状態にむけて、あえて切断実行したブルネレスキの仕事のやり方を誰よりも好んでいる。彼が建築が実現される現場を知り尽くしていた。」

パラディオの本は「永久に決定稿に到達することができない非決定稿の積み重ね」であり、単に本のイメージを、表層をコピーした現在のパラディアニズムには「軽ろみ」が感じられない。
「イメージを非決定のまま、さまざまなクライアントや、ときにはテアトロ・オリンピコの場合のように複数の他者の決定にまかせている。」
「非決定のままに浮遊しながら、明瞭な像に到達する」=限りなく形式に近い。

<日本的なもの>
西洋の建築(エディフィス)=メタ構築物
日本では建築という概念がなく、建築(物)は古代ギリシアのようにコトとモノ両方指示してた。ので「デミウルゴモルフィスム」を提案。←「デミウルゴス=場の生成を作動させる媒体」から命名。
非自然に組み立てられた枠組み=形式に適合することに生きがいを見出す日本的生活様式

<アーキテクチャ>
唯一実在すると考えられた身体の原理とは別の法則が働く場所、パソコンの中の話。システムそれ自体。

<デミウルゴス>
啓蒙主義における理性=古典主義的な純粋幾何学形態=形式=「さび」を引き起こすもの=「九相図」における白骨化した状態」=アメリカ抽象主義の、絵画における平面、彫刻における立体、建築における形式

<亀裂>
「都市の変貌は巨大な亀裂から始める」
文字通り1995阪神大震災における地面の亀裂によって都市が変化していった。
亀裂はひとつの兆候の突然の出現である。
甲骨文字は甲羅の亀裂をアナログ的思考の展開の基本形とし、文明の言語大系までに形式化した。

<フィレンツェ駅>
構造アルゴリズムの演算という事実=形式だけを頼りにまだ見ぬ形を想像。

最終的には形式と身体が重要です、ということを強く押している。

以下感想。
いやしかし、安易に消費されることなく、形式が重要だってこと自体を形式にするために、デミウルゴスやらパラディオやらさびやら九相図やら池田亮司やら、といった差異のある雑物を、総動員して文章を書くこと自体が建築的で羨ましく思った。
「デザインするということは、こんな後に附加された雑物の背後にその一切を成立させるひとつの形式を見出すこと」がすべて。

彼の理想的な建築(=強度を持った形式を内在させた建築)を生む流れとしては、
1.亀裂の発見→2.「目の前のことにひたすら反応する=亀裂を育てていく」ことで自分の思考からでちゃう余分な雑物を最小限に押さえる→3.亀裂を形式化する→4.入れなきゃ成立しない社会的雑物(施主の意見、動線確保とか構造とかディテール)投入→5.さびを感じられる建築として成立させる=身体性を投入する
といった具合だろうか。いや当然2-4(あるいは5も)はもっと絡み合ってるはずだが。

ここで、身体性とは違う論理で発展しているからなにか新しい可能性を有している「アーキテクチャ」概念を2-5に導入する時、現在の主な議論に対応させて考えると、

設計プロセスの開示はだいたいが4の話。である。その時建築家に求められているのは2.3.5。切断の先送り(夜学校における決めないエンジニアリング、庭師、竣工後のプロセスへの参加)に関しては、4を先延ばしにしたまま5に直接つなげるという可能性につながっている。

とするとアルゴリズミック自動生成はに2の部分をコンピュータよろしく。ということになる。自動生成なら余計な雑物のないまま3での形式化が可能であるから。ここでの3はアルゴリズムを止めることに対応している。

そして、5にアーキテクチャを導入すると東浩紀氏の言う環境管理型になる。


だから設計開示プロセス+アルゴリズミックデザイン+環境管理(+切断の先送り)は、上記2-5すべてにアーキテクチャを投入可能である。

また、2-5のトータルデザインとして、磯崎氏のプロセスプランニング論や藤村氏の超線形設計プロセス(あるいは中山氏のスケッチの積み重ねによるプロセス)におけるプロセスの微分化単純化が挙げられる。この2つ理論はコンピュータ上でシステムを構築するアーキテクチャの振る舞いに対応可能である。

しかしながら、なぜアーキテクチャを建築へ投入するのか?という問いに対しては、そこにウェブ革命があったからということ以上には言えない気がしている。それが良いか悪いかはわからない。自然の摂理的なものかもしれない。

いずれにせよ、1の亀裂の発見(選択)は今のところ人間の特権であるし、5の身体性の導入は建築家の特権であるからこれらが逆説的に最も重要である。1は建築家の「個性」に抵触する部分、5と、1-5のトータルデザインは建築家としての職能に抵触する部分として。

今回も、ちなみに、403の現場主義に関しては2の比率をかなり上げて、3,4,5を飲み込む形になると少しは可能性がありそうである。
# by tsujitakuma | 2010-01-31 02:32 | book | Comments(0)
2010年 01月 24日
承認に生きられるか

どういう状態が幸せか、という話から、僕の今後について。

(以下、かなり飛躍がある論理ですが、僕なりに考えてきたことです。だいたい合ってると思います。)

人間ってのは言葉で考えている。言葉がなかったら動物とほぼ同じ。

何故言葉が生まれたかを考えると、それは周りの主体とコミュニケーションをとる必要があったからだと思う。

ということは言葉は「周り」のためにある。

かなり大雑把に言えば、人間たる条件は言葉を扱うってことで、その言葉は周りの人間のためにあるのだから、人間は周りの人間のために生きている、と言える。

幸せに生きるってのは、人間的な感覚を実感している状態だとすれば、周りの人間とのコミュニケーションがうまくいっている状態だと思うのである。ほめられたり、しかられたり、議論したり、無駄話をしたり。

この、周りとの良質なコミュニケーションが取れている状態のことを「他者からの承認を得ている」と定義すると、例えば承認をいつ、どこに求めるかによって、その人らしさが決まる。

特定の友人に求めたり、家族に求めたりするのは、少ない人数からたくさんの承認を得るということ。

逆に、有名になったり、お金をたくさん稼いだり、良い建築を建てたりするのは、多くの人から少しずつ承認を得るということ。

ここに時間軸が重なって、上記に挙げた承認をいつ求めるか、つまり自分が何らかの行動を起こした直後なのか、5年後なのか、死後なのかによってもさらに「らしさ」は定義されていく。世にはゴッホ的な生き方もある。

ここで再び幸せについて。
「人間的な感覚を実感している状態」をもう少し掘り下げて、「自分の能力と承認の総和が一致している状態」と定義し直す。

要するに、上記に挙げた様々な他者からの承認の総和と自分の能力によって、幸せかどうかが決まる。そして求める承認の種類と割合と総量によってらしさが決まる。

この論理からすると、一般的にすごい人、例えばイチローはたくさんの人からたくさんの承認を得ているし、家族からの承認もある。それがイチローの能力に見合っているから彼は幸せだろうと勝手に判断できる。(もしかしたら彼は自分の能力に対する承認量に不満かもしれないし、あるいは、承認量が多すぎて不安になっているかもしれない。)

ここまでは自分なりに今まで考えてきた幸せ論。

で、現在を見てみよう。

社会的には、「承認を得にくい社会」になっているらしく、例えば秋葉事件とか、どこからも承認を得られないからコミュニケーション不全に陥る可能性が高まっている。と語られる。
確かに家族や地域社会との関係は希薄になり、友人同士の関係においてすら、心を揺さぶる承認は減っている感覚はある。

ここに僕たち現代の若者には、自分の将来に対する不安というもんが重なって、きついシュウカツをこなし、つまらん仕事をこなし、きつい会社の人間関係に悩み、憂鬱な月曜を迎えている、という友人の話をよく聞く。その中でもなんとか自分を保って日々を過ごしている人の精神力は尊敬に値する。
あるいは、自分のように企業に行かないという選択をする人間には厳しい社会的洗礼が待っているという2択。もちろん、今の仕事に満足しているし心から楽しいと言う人もいるかもしれないが、経験論的には稀だ。

昔(高度経済成長期まで)は仕事にも承認を求められたし、家庭にも、地域社会にも承認を求められた。

今では、「友人」あるいは「恋人」が最もそれを求めやすい存在になっていると感じる。

だから友人や恋人は大事だ、ってことを言いたいのではなくて、自分がどこに承認を求めるべきかということを意識して生きた方が、精神的には楽になるかもしれないということを言いたい。

仕事でもいい、家庭でもいい、親でも良い、夢なる概念でもいい、自分の内側に求めても良い、あるいはお金でもいい(お金は承認それ自体ではなくて、その代用品だからそれには注意が必要)。今の仕事がきつくて、承認を家庭に求める人であれば、仕事やめて結婚すればいい。もしくは実家に帰って簡単なバイトでもしながら家族と和やかな時間を過ごせばいい。そこには当然最低限の生活費という条件が発生するが、生活するくらいなら月10万あればなんとかなる。子供が欲しい場合は別だが。そういう、現状以外の選択肢も現状の解釈の仕方も無限にある。今は無限の中のたった1つなのだ。

ただ、一番いけないと思うのは、承認を求めることそれ自体が目的になることだ。
それはあくまで自分があっての承認だから、
自分が何をして(本当はここが最も重要)、
どこから、いつ、どれくらい承認を得るかということを常に意識して日々をこなせば、比較的幸せに生きることができるはずだ。当然それは日々変化していくので、常に意識続け、変化させる必要がある。

承認に対して、決まりきったルールとかレシピはない。あなたなりのものを意識して欲しい。メディアはやれ恋人がいないのはダサイだの、やれシュウカツ厳しいとか言うけれど、そんなものはなくても自分はそう簡単にはなくならないのだ。フリーターやらニートやら名前をつけて安心したいだけだ。
仕事をやめたって世界もあなたも終わらないし、お金と会社に行かなくなる事以外は特に変化しない。友人も家族もやめ、にはならないだろう。
(別に仕事やめろって言っているわけではない)

自分と言う存在はどこまでも終わりのない回転寿しのように続いていく。

このしょうもない社会はそう簡単には変わりそうにない。そうであるなら、その中でどうやったら比較的幸せに過ごすことが出来るかに思考を集中させた方が懸命だ。


そして僕はと言うと、建築というものをして、友人や恋人や小さな社会や家族から継続的に承認を得ていたいと思っている。その割合と総量に関しては今は保留している。

ひとまず、やっぱり、海外へいきたいと思っている。
# by tsujitakuma | 2010-01-24 03:46 | i | Comments(4)
2010年 01月 04日
dot architectsについての考察/極私的暗黙知は社会的普遍性を獲得し得るか
2009年プリズミックギャラリーの「超並列」展以降、その活躍の場を地元大阪を超え全国に広げているdot architects(以下dot)。

<一般的な印象論>
dotは家成 俊勝、大東 翼、赤代 武志の3人で構成される、大阪で活動する建築ユニットで、彼らに関して最も知られているのは多分に「超並列的に設計を進める」ということである。一般的な設計においては図面、詳細、模型を完全分業且つ同時並行では進めない線形的な方法(スタディ模型→図面化→模型検討→詳細検討)をとることが多いのだが、彼らは、図面、詳細、模型を同時並行で担当し、且つ、それぞれがそれぞれのプロセスに介入し、相互影響を繰り返しながら完成へと近づけていくというものである。

筆者は、図面、模型、ディテールという振り分け自体は3人の能力とコミュニケーションから自然と決まったものであると推測しているのでさほど重要視はしていない。ここで重要なのは複数が同時に相互影響を与えるというプロセスにある。

彼らは「no.00」という作品で実際に超並列設計プロセスを実践しており、さらに「no.00」の模型を拡張した「latest no.00」という作品
                                             ※筆者撮影

で建築における物理的切断を、より多くの主体と時間を巻き込みながら遅らせるということも模型レベルではあるが実践し既に2009年に行われた各展覧会等で発表済みである。
彼らのプレゼンテーション(筆者は09年に催されたAA95、建築夜学校第二夜を拝見している)では、何人の人が設計に介入したかを最も強調しており、プロジェクトごとフェーズごとで何人が参加したかを示すシートが用意されていた。
その議論は当然建築家藤村龍至氏の政治的意思決定※1に通ずるものがあり、つまり、藤村に引き寄せた説明をするのであれば、たくさんの人が設計に介入する事である政治的盛り上がりを共有し、案がポシャらないことをひとまず目的としている(一応、藤村氏もdotもそれだけではなくて作品の創造性を担保する方法論だということを推しているし筆者はそれに対して肯定的)。
いやもっと言うなら、実現する事を超えて、家成さんは夜学校においてプロセス自体がネットワークとなり、竣工後もその人的ネットワークが維持発展していくことが理想だと表現し、「町の自転車屋さん」という言葉で自らその理想像を表している。
ここまでが、一般的なdotのプロセスにある印象ということになるのであろうか。
複数相互影響と、プロセスの共有。

あ、あともう一つ、言説以外で圧倒的印象を残しているのが、その模型表現である。Latest no.00の色で言うと、銀と茶色。素材で言うとアルミ、木材、ガラス。それらがカオティックに部分の集合として、全体性を超えて立ち現れる風景は圧巻である。
この模型制作上においては同時に複数の人間が相互に影響を与えながら作業を進めており、普通にやったらただの混沌で終わる。
そこへ有効な秩序を与えているのは、3人が提示した人間へのアーキテクチャ(ルール)である。具体的には
・初期段階で決定されるフォーム(no.00においては構造的骨格。真ん中にコアをよせ、四面とも自由なファサードを獲得しつつ2層を確保。プロジェクトごとに変化する案の根幹のようなもの、フォームとカオスの説明に関しては筆者ブログを参照)
・材料の指定(ホームセンターで買えるもの)
・床壁天井があること
が最も影響していると思われる。他にも、「他の人が作った部分をどんどん変更して良い」などの倫理的な箍を外すものはあるがここでは割愛。
材料の指定は、どこでも手に入り、誰でも簡単に扱えることを条件にして決めているということだが(切断の先送りの話で後述)、それがそのまま表現の印象にもつながっている。
さらに床壁天井を部分で担保することにより部分単体としての秩序も保っているのが特徴である。必然的に部分と部分とをつなぐ、渡り廊下的な空間や階段が場当たり的特注品の象徴として目に飛び込んでくるのである。

このようにdotの一般的な印象(プロセスと表現)は語られているはずである。どうだろうか。確かにdotの並列性は現代的だしキャッチーだし有効だ。


<個人的な印象論>
筆者は個人的に飲み会の席で家成氏、大東氏とことごとく隣になり議論したということも手伝って、もう少し踏み込んで、勝手に、彼らの手の内側を想像してみたい。

ひとまず、

筆者が想像するに、彼らの大きな大きな目標は「建築を人のつながりに寄与する道具として再解釈し、建築の社会的地位を草の根的に回復させる」ということに尽きる。(当然だが建築の質を担保することは前提としてある。ベージュ色の公共施設は作らないだろう)
そのための「町の自転車屋さん」宣言であると思っているし、たくさんの人を設計に取り込む事もそこへつながる。また、地域の町工場との連携や専門学校とのワークショップもその一端を担っている。
また夜学校で議論になった「切断の先送り」も彼らが上記達成のために取入れようとしていることでもある気がする。つまり建築が建った後、その維持管理においても様々な人が携わる事でプロセスを引き延ばし、そこまで射程に入れて、共有可能性を高めることを視野に入れている。若手建築家ではon designの西田司氏が最も意識的に取り組み、実践している。そのために材料の指定(ホームセンターで買えるもの)をし、事前プロセスも事後プロセスも、物理的もしくは意味的に開放しようとしている、と思われる。


続いて、設計における手の内側。(これに関してはかなり筆者の推測によるところが大きいですが、筆者も403などで同様な体験をしているので正確に表現している自負はあります。)

超並列設計にしても、複数人によるプロセスの共有、引き延ばしにしても、多分に彼ら3人による徹底した議論がなければ成立していないだろう。
上記<一般的な印象論>に挙げたもろもろの事象はある意味で表層であり、外部化されたメディアであり、伝わりやすいものである。それを受け入れるだけのプラットフォームが彼らの議論に詰まっているのだと筆者は考えている。(具体的にはひとまず、フォームにあたる部分がその役割を担っている)
つまり深層にあるのは暗黙知的な3人のチームワークによるオーバードライブである。共有を掲げる者にとって、外部化できない、共有不可能な部分こそ逆説的に重要なのだ。それをどこまで飛ばせるかによって、どれだけの言葉、人間を許容出来るかが決定される。昔から言われている阿吽の呼吸、職人の技術伝承的な、仲間最高!!的な、アナログ思考がdotの根幹だと断言しよう。

ひとまず、現状では一つの住宅に対し20人程度の参加は担保している。それが公共建築に成った時、1000人くらいが「自分の作品だ」と思えるようなプラットフォームを3人が生み出す事が出来るのか。筆者の個人的な楽しみである。先駆的なフォームの例は山本理顕氏の邑楽町役場の邑楽ユニット※2が挙げられる。アレグザンダーの「パタンランゲージ」※3では抽象的過ぎてそこまで共有されない(思い入れが少ない)上に、川越や真鶴での事例からみると、創造的なアウトプットにまで昇華されていないように思われる。


ここまで書いて、なんだかdot超仲良い論みたいになってしまったので具体的な課題を、大変に恐縮ではあるが自戒の念を込めてあげておきたい。

彼らの課題をメタボリズムの失敗から考えてみたい。大雑把に言えば、dotの方法論はメタボリズムのコア(不変)とカプセル(可変)に分解できる。コアは[深層]の「フォーム」に、カプセルは[表層]の「カオス(複数人参加プロセスとその表現)」にと対応する。

だから、dotが、そういったプロセスの切断を先送りし、より多くの人を設計プロセスに介入させるために物理的に変化する建築を達成しようとするなら(施工に觝触しようとするのであればなおさら)、何故メタボ建築が「動」かなかったかを考えるべきで、既にdotはそこからホームセンターで手に入る材料を使うという方向へ傾倒したと考えられる。それは非常に共感するし刺激的だ。
材料の汎用性は担保している。
メタボリズムの代表格菊竹清訓「か・かた・かたち」※4によると、日本建築の到達点は大工技術が社会の隅々まで広がった江戸にあるようで、つまり、接続部の処理、寸法は体系化されていたし、地域社会に瓦屋、畳屋という社会ストックがあるからこその持続可能性(物理的入れ替え可能性)なのであった。と。
畳屋の再出現や寸法体系の統一を社会的に期待できない今、残る課題はシグチや継手といった接続部の汎用性、冗長性であろう。変化するものにとっては、変化するものと変わらないもの(相対的に)との接続部の処理こそ重要になってくると思うからである。接続部が強固で特別すぎると取り替えるコストが高いし、接続部が脆弱で汎用性が高すぎると、文字通り建築はすぐ崩れる。だから、ホームセンター材料×有効な接続部の発明こそ、彼らのチームワーク(これは既に担保されているはず)に上乗せするべき課題ではないだろうか。



さすれば、dotそれ自体は江戸の畳屋にかわる、概念としての「町の自転車屋さん」に近づき、彼らのプロジェクトは「1000人が自分の作品だと思えるプロジェクト」として設計、竣工、維持管理というすべてのフェーズにおいて実現されるはずだし、その実現を強く期待している。

3人という私的関係を突き詰める事である普遍性を獲得してほしい。

そして何より、彼らの、ゆるい、懐の深い人間性なら、それが可能だと確信している。

<あとがき>
本稿では客観性をなるべく担保するため、今個人的に流行っている「反応」という言葉を避けたが、地に脚をつけて、目の前のことに同時に「反応」していく彼らのプロセスは403も参考にしなくてはならない。

□参考
※1「思想地図vol.3」 「google的建築家像を目指して」藤村龍至
※2「つくりながら考える、使いながらつくる」 山本理顕
※3「パタンランゲージ」 C・アレグザンダー
※4「代謝建築論 か、かた、かたち」 菊竹清訓
ウェブページdot architects
# by tsujitakuma | 2010-01-04 21:23 | architect | Comments(0)
2010年 01月 02日
100102
僕の友人であるK君の両親が何やら浜松を盛り上げたいらしいということで、今日お会いする機会を設けて頂いた。
K君の父Kさんは某地元有名企業でプロダクトデザインを担当していたのだが、リーマンショック前の絶妙のタイミングで退社後一年間浜松の実情を自分の脚で調べ尽くしたとのことである。
氏が回ったのは、地元の商工会議所や町工場、林業事業所など地域に密着した主体ばかりで、自分の見地で確かめたことを僕らに啓蒙してくれた。脱サラを軽々とした後ということも含めてそのフットワークと軽快な話術に驚嘆した。

氏によれば、
・浜松はもともとポテンシャルが高い、地理的にも人的にも。もともともの作りの街だから素材はある。問題は下請け体質によって中小企業が主体的にモノを生産し、売るという行為をしないこと。
・だからちょっとしたアイデアを知らせ、モチベを上げ、全体の方向性を方向付けるプロデューサーがいれば良い。ex.商工会
・浜松のメンタリティとして最初に手を挙げる人がいないことがある。手を挙げたらみんなついてくることは明白。
・全国で問題視されている様々な地方都市の実情の幕の内弁当状態の浜松で成功すれば、日本のモデルになる。
・林業の問題は根深い。米と同じでいきなり輸入やめますとは言えない。
・市長がスズキヤストモ、知事はカワカツヘイタと割と期待できる。

個人的なアドバイスとしては、
・大きな事務所で博をつけて凱旋する事
・海外へいくのは日本で実務を学んでからいくこと
・日本は狭いんだから、住むとこなんて流動的で良い

その他具体的な事例として、
・百合の木通りでの草の根活動
・OMソーラー研究所、野沢正光氏
・SUSアルミの家山本理顕氏
・木下敬一郎記念館→浜松市建築士会の功績
などが挙げられる。
浜松もものすごいポテンシャルがある。僕も含めて、浜松の中にいる人はこの事実を何も知らないのではないか。自分の実感としてこのような話を聞けたのは本当にためになった。どうもありがとうアギト。
# by tsujitakuma | 2010-01-02 23:22 | i | Comments(2)
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