原っぱと遊園地 |
この本の著者青木淳の存在はもちろん昔から知っていたし、潟博物館も青森県立美術館にも行った。その上この本も読んだことはあった。しかし、全くといっていいほど関心をそそらなかった。
最近この本を読見返してみたら一気に好きになった。
極めて個人的な解釈ではあるが、彼は建築にのしかかる作者の恣意性の排除に全精力を注いでいると言っていいと思う。「原っぱ」も「動線体」も「ルール」もすべてはいかに恣意性を排除するかを目指した結果出てきた言葉たちではないか。押し付けがましさ、機能主義による生活の分割、空間に名前を与えること、そのような建築家からしたら仕方がないことから彼は逃げない。無意味という暗黒にも彼は平然と立ち向かう。(立ち向かっているように見える。)
今まで自分は、設計教育において、建築を作る理由はかなり大事だということを教えられてきた。だから建築がそこにあっていい理由がないと伝わらないと思ってしまうし、不安になる。それが当たり前だと思ってきたし、今もそう思っている。
一方でそうした意味への偏重にも違和感があった。どんなに設計者的には大事な図式を強調したとしても実際そこを体験する人には何の意味もないのではないかと。モノ、建築、差異なんて存在してしまえばどうだっていいのではないかという一種のあきらめのような空虚感をたまに感じてしまう。
彼はそうした「意味」の二項対立を飛び越えていた。
この本を通して青木は「たまたまそこにある感じ」という言葉を連発する。この言葉によって僕は彼を好きになった。