2009年 06月 20日
講義レポ(横浜建築都市学090619) |
[現代思想と建築 ボードリヤール、ヌヴェル、荒川修作 講師:塚原 史]
<前提1>
ミシェル・フーコー(1926-1984):理性を持った主体としての個人を定義
ハンナ・アレント(1906-1975):外部の視点の導入、相対化
フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913):「シニフィエとシニフィアンの絆は恣意的である」ことからシニフィエとシニフィアンは切断可能であることが発見される。
1906-11年:一般言語学講義
記号の意味からの解放をいち早く思考実験として芸術に取り入れたのはイタリア未来派と言われている。彼らは1909年「未来派宣言」-時間と空間は昨日死んだ-によって過去の非在性を表象した。昨日世界が始まったとしてもなんら不都合はない。すなわち、過去というシニフィエが表すべき過去の出来事の積み重ねは無意味化され、逆説的に現在の中にすべての時間が内包されていることを動的な彫刻によって表現した。
<DADA>
ツァラ(1896-1963):1916年:反芸術運動DADA始動
「ダダは何も意味しない」「システムの不在が最良のシステムだ」
マルセル・デュシャン(1887-1968):既成のオブジェを作品化し、芸術の主体を解体した。
cx:結果として、「泉」で使われたただの既製品の便器に4億円の値がつき、この作品自体も消費社会に回収されてしまった。
<オリジナルの消滅>
ワルター・ベンヤミン(1892-1940):複製技術によってオリジナルのアウラは消滅した。
ダニエル・ブーアスティン(1914-2004):現代社会はイメージとコピーの時代でオリジナルの価値はコピーで決まると発言。モナリザはコピーの方が質が高く、実際見に行って色の発色具合や小ささに落胆することがある。もはやコピーはそのフィジカルな質においてオリジナルを凌駕する時代に突入した。
<ボードリヤールとシュミレーションの時代>
ジャン・ボードリヤール(1929−2007)
シュミラークルの三層構造
模造:手作業(オリジナル優位)
生産:機械による複製(記号化による大量生産)
シュミレーション:オリジナル不在の複製(オリジナルvsコピーからシュミラークルvsデータベース)
消費の本質→欲求従属から記号の消費へ。記号は差異表示記号として現象し、巨大なネットワークを構築
cxアーサー・c・クラーク(1917-2008):1953、creative artの終わりを告げる。これにより、思考実験としての芸術の終わりも同時に宣告された。
<ポストモダン>
ジャン・フランソワ・リオタール(1924-1998):「ポストモダンの条件」自己正当の言説が生み出した大きな物語への不信→二項対立から不確実性、非中心性へ
チャールズ・ジェンクス(1939-):「ポストモダンの建築言語」
<冷戦終結から9・11ー独創性の限界ー>
近代社会が独創性を強調し、現実を否定することが世界を変えることだという普遍的イメージが出来上がる。冷戦終結により否定するべき相手が消え失せ、9・11によって等価交換の終わりを迎えた。WTCについてボードリヤールは「このような二つのまったく同一の建築が向かい合って存在すると言う事実は、一切の競争の終わり、オリジナルなものへの一切の準拠の終わりを意味する。このWTCが交換不可能的に、一方的に崩壊した事実が9・11以降の社会を暗示している。
<ボードリヤール×ヌーヴェル>
変化:予測可能な事物
生成:予測不可能な事物
いかに生成物としての他者(未知)と共犯関係を結ぶかが建築的理性の消滅(クローン的建築=プログラムとデータによってのみ作られる、変化のための変化)を防ぐ。
「この共犯性の中で一定の複雑性に到達するのだが、複雑性自体は目的ではない。」JN
「特異なオブジェはそれを創造したものによって謎めいた不可解な側へ連れ戻され、我々につきまとい、我々を魅了する。」JB
------------------------------
と、ここまで、塚原氏は膨大な情報をシュミラークル化と独創性の消滅という流れに乗せて分かりやすく説明してくれた。モダニズムの批判精神、思考実験としての芸術はダダイズムにピークを迎え、そこからはなし崩し的にポストモダンまで傾倒していったように思われる。現在はというと、ヌヴェルとボードリヤールの対談にあるように、シュミラークル化を回避するためには、他者との共犯関係が必要ということであろうか。
北山氏、梅本氏、塚原氏による議論では、建築と共感の共犯関係が今後未来を切り開くということに落ち着いた。
梅本氏曰く、「イオンではなく鈴木豆腐店にこそ建築家が携わる価値があり、消費社会に対する一時の、はかない抵抗だとしても、その価値は計り知れない。」
最後は、シュミラークル化を回避できる創造行為は、場所という交換不可能なステイタスを有する建築しかないという前向きな結論で幕を閉じた。確かに、お金や、言葉や、絵や、写真に比べ、パクリにくい。それは建築が扱う客観的条件が膨大だからであろう。いや、
<前提1>
ミシェル・フーコー(1926-1984):理性を持った主体としての個人を定義
ハンナ・アレント(1906-1975):外部の視点の導入、相対化
フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913):「シニフィエとシニフィアンの絆は恣意的である」ことからシニフィエとシニフィアンは切断可能であることが発見される。
1906-11年:一般言語学講義
記号の意味からの解放をいち早く思考実験として芸術に取り入れたのはイタリア未来派と言われている。彼らは1909年「未来派宣言」-時間と空間は昨日死んだ-によって過去の非在性を表象した。昨日世界が始まったとしてもなんら不都合はない。すなわち、過去というシニフィエが表すべき過去の出来事の積み重ねは無意味化され、逆説的に現在の中にすべての時間が内包されていることを動的な彫刻によって表現した。
<DADA>
ツァラ(1896-1963):1916年:反芸術運動DADA始動
「ダダは何も意味しない」「システムの不在が最良のシステムだ」
マルセル・デュシャン(1887-1968):既成のオブジェを作品化し、芸術の主体を解体した。
cx:結果として、「泉」で使われたただの既製品の便器に4億円の値がつき、この作品自体も消費社会に回収されてしまった。
<オリジナルの消滅>
ワルター・ベンヤミン(1892-1940):複製技術によってオリジナルのアウラは消滅した。
ダニエル・ブーアスティン(1914-2004):現代社会はイメージとコピーの時代でオリジナルの価値はコピーで決まると発言。モナリザはコピーの方が質が高く、実際見に行って色の発色具合や小ささに落胆することがある。もはやコピーはそのフィジカルな質においてオリジナルを凌駕する時代に突入した。
<ボードリヤールとシュミレーションの時代>
ジャン・ボードリヤール(1929−2007)
シュミラークルの三層構造
模造:手作業(オリジナル優位)
生産:機械による複製(記号化による大量生産)
シュミレーション:オリジナル不在の複製(オリジナルvsコピーからシュミラークルvsデータベース)
消費の本質→欲求従属から記号の消費へ。記号は差異表示記号として現象し、巨大なネットワークを構築
cxアーサー・c・クラーク(1917-2008):1953、creative artの終わりを告げる。これにより、思考実験としての芸術の終わりも同時に宣告された。
<ポストモダン>
ジャン・フランソワ・リオタール(1924-1998):「ポストモダンの条件」自己正当の言説が生み出した大きな物語への不信→二項対立から不確実性、非中心性へ
チャールズ・ジェンクス(1939-):「ポストモダンの建築言語」
<冷戦終結から9・11ー独創性の限界ー>
近代社会が独創性を強調し、現実を否定することが世界を変えることだという普遍的イメージが出来上がる。冷戦終結により否定するべき相手が消え失せ、9・11によって等価交換の終わりを迎えた。WTCについてボードリヤールは「このような二つのまったく同一の建築が向かい合って存在すると言う事実は、一切の競争の終わり、オリジナルなものへの一切の準拠の終わりを意味する。このWTCが交換不可能的に、一方的に崩壊した事実が9・11以降の社会を暗示している。
<ボードリヤール×ヌーヴェル>
変化:予測可能な事物
生成:予測不可能な事物
いかに生成物としての他者(未知)と共犯関係を結ぶかが建築的理性の消滅(クローン的建築=プログラムとデータによってのみ作られる、変化のための変化)を防ぐ。
「この共犯性の中で一定の複雑性に到達するのだが、複雑性自体は目的ではない。」JN
「特異なオブジェはそれを創造したものによって謎めいた不可解な側へ連れ戻され、我々につきまとい、我々を魅了する。」JB
------------------------------
と、ここまで、塚原氏は膨大な情報をシュミラークル化と独創性の消滅という流れに乗せて分かりやすく説明してくれた。モダニズムの批判精神、思考実験としての芸術はダダイズムにピークを迎え、そこからはなし崩し的にポストモダンまで傾倒していったように思われる。現在はというと、ヌヴェルとボードリヤールの対談にあるように、シュミラークル化を回避するためには、他者との共犯関係が必要ということであろうか。
北山氏、梅本氏、塚原氏による議論では、建築と共感の共犯関係が今後未来を切り開くということに落ち着いた。
梅本氏曰く、「イオンではなく鈴木豆腐店にこそ建築家が携わる価値があり、消費社会に対する一時の、はかない抵抗だとしても、その価値は計り知れない。」
最後は、シュミラークル化を回避できる創造行為は、場所という交換不可能なステイタスを有する建築しかないという前向きな結論で幕を閉じた。確かに、お金や、言葉や、絵や、写真に比べ、パクリにくい。それは建築が扱う客観的条件が膨大だからであろう。いや、
by tsujitakuma
| 2009-06-20 23:14
| ygsa