2009年 08月 31日
横浜坂出松山大阪京都浜松横浜熱海横浜 |
8/24藤村飲み
8/25 5:30解散
一旦帰宅し、そのまま寝ずに鈍行で四国へ
17:30 坂出着→坂出人工土地→讃岐うどんを食し、シゲトカーで松山へ
<話した事、アート>
近代化以降のアートの役割。既存権力をいかに批判するか。
エントロピーに逆らう流れを作るのが、現代アートの役割なのでは。左だ。
<話した事、他者への依存>
承認関係と依存。
人間が社会的な動物である限りにおいては、他者との関係性によって自己の存在が確認されていく。他者からの承認をどこに求めるかによって、仕事、家庭、趣味、友人といった一般的な分類に当てはまっていくのであろう。
仕事、あるいは社会的活動は関係する他者が不特定多数であるため、不特定多数の承認が目的となる。
家庭においては限られた人数からの承認が必要であるが、その度合いは相対的に強いものとなるのではないか。
つまり、不特定多数に依存するか、既知の一人に依存するか。
結局、その依存関係を保証するのが付き合うという契約であり、結婚であり、勉学であり、お金であり、言葉である。
言葉が生まれた時点で、他者への依存は始まっている。というか、依存自体が生存を上回って欲されるようになった。
保証する事によって保証を破棄することに対してリスクが生まれる。
そのリスクを避けようとするのが、「嘘は言いたくない」理論であり、リスクを受け入れることで相手に対する意思表示をし、承認関係を保証することが結婚の前提となっている。
何かを「好き」だと思い込む事は、自分のリスクを相手に投げることである。
承認関係を築くために、まずは自分から、リスクを背負う覚悟を示す事で、その「お返し」に相手に自分を承認してもらうのだ。
自己実現という意味において、仕事をとるか、家庭をとるか、どの他者から、どのくらいの承認が欲しいのかという問題は結局個人に帰す。
人間が社会的な動物である限りにおいては、
8/26 11:00起床→道後温泉→下灘駅→塩ラーメン屋→せいご見送り
<話した事、専門化、多様化、ネットワーク、政治>
部分のリテラシーを各部分であげ、相互にネットワークさせる。
専門家の存在はネットワークそのものとなる。
政治であれば、都道府県制を維持したまま、可変的道州制を導入し、各都道府県はカテゴリーごとに統合する県を選択できる。それはそのまま法律に適用できる。
都市計画法は愛知、静岡で共有し、建築基準法は静岡、神奈川でといった具合に、条例と法律の間に様々なグラデーションを生む。ここでの政治の役割はどこの県と組むかというネットワークそのものとなる。コストとの兼ね合いになるのは言うまでもない。
8/27 5:00起床→鈍行で大阪へ→14:00大阪着→中之島図書館→水都大阪→22:00京都でフットサル
<考えた事、大阪>
秩序の階層っぷりの直接性、おおらかな接客
<読んだ本で感じた事、メタボリズム>
日本的文化の再評価を根本に置いている。そこには直前の近代主義を乗り越えるというよりは、否定だけして、江戸時代までに培われた日本文化を持ち出し、近代主義を飛び越えようとしている。
完成された木造技術の論理的転用には共感する。そこで重要なのは部材と接続部である。そこから循環、生命、コアとカプセルといった形骸化したイメージが生まれている。社会全体が木造技術の発展に寄与していたこと、を踏まえると、分業、専門化が圧倒的に進んだ現代においては、例えばカプセルを取り替える事と畳や建具を取り替える事のコスト差は凄まじいものがあり、その点においてメタボリズムは失墜したように見られている。
しかし、その根本にある、部分と接続の関係は黒川紀章も言及しているように今日の情報化社会に通呈する思想が隠れているはずである。
8/28 10:00起床→銀閣→法然院→鈍行で浜松へ
<考えた事、京都>
スケールの欠落、公共交通の破綻、慈照寺の庭園はやはりすばらしかった。入れない、使えない余裕が必要だと思う。「空間」は余る一方である。
8/29 8:00起床→鈍行で横浜へ→アパグチ内覧会→打ち上げ参加→原崎と熱海へ
8/30 10:00起床→大崎のバイクで向上館→海鮮丼→熱い温泉→鈍行で横浜へ→選挙
8/25 5:30解散
一旦帰宅し、そのまま寝ずに鈍行で四国へ
17:30 坂出着→坂出人工土地→讃岐うどんを食し、シゲトカーで松山へ
<話した事、アート>
近代化以降のアートの役割。既存権力をいかに批判するか。
エントロピーに逆らう流れを作るのが、現代アートの役割なのでは。左だ。
<話した事、他者への依存>
承認関係と依存。
人間が社会的な動物である限りにおいては、他者との関係性によって自己の存在が確認されていく。他者からの承認をどこに求めるかによって、仕事、家庭、趣味、友人といった一般的な分類に当てはまっていくのであろう。
仕事、あるいは社会的活動は関係する他者が不特定多数であるため、不特定多数の承認が目的となる。
家庭においては限られた人数からの承認が必要であるが、その度合いは相対的に強いものとなるのではないか。
つまり、不特定多数に依存するか、既知の一人に依存するか。
結局、その依存関係を保証するのが付き合うという契約であり、結婚であり、勉学であり、お金であり、言葉である。
言葉が生まれた時点で、他者への依存は始まっている。というか、依存自体が生存を上回って欲されるようになった。
保証する事によって保証を破棄することに対してリスクが生まれる。
そのリスクを避けようとするのが、「嘘は言いたくない」理論であり、リスクを受け入れることで相手に対する意思表示をし、承認関係を保証することが結婚の前提となっている。
何かを「好き」だと思い込む事は、自分のリスクを相手に投げることである。
承認関係を築くために、まずは自分から、リスクを背負う覚悟を示す事で、その「お返し」に相手に自分を承認してもらうのだ。
自己実現という意味において、仕事をとるか、家庭をとるか、どの他者から、どのくらいの承認が欲しいのかという問題は結局個人に帰す。
人間が社会的な動物である限りにおいては、
8/26 11:00起床→道後温泉→下灘駅→塩ラーメン屋→せいご見送り
<話した事、専門化、多様化、ネットワーク、政治>
部分のリテラシーを各部分であげ、相互にネットワークさせる。
専門家の存在はネットワークそのものとなる。
政治であれば、都道府県制を維持したまま、可変的道州制を導入し、各都道府県はカテゴリーごとに統合する県を選択できる。それはそのまま法律に適用できる。
都市計画法は愛知、静岡で共有し、建築基準法は静岡、神奈川でといった具合に、条例と法律の間に様々なグラデーションを生む。ここでの政治の役割はどこの県と組むかというネットワークそのものとなる。コストとの兼ね合いになるのは言うまでもない。
8/27 5:00起床→鈍行で大阪へ→14:00大阪着→中之島図書館→水都大阪→22:00京都でフットサル
<考えた事、大阪>
秩序の階層っぷりの直接性、おおらかな接客
<読んだ本で感じた事、メタボリズム>
日本的文化の再評価を根本に置いている。そこには直前の近代主義を乗り越えるというよりは、否定だけして、江戸時代までに培われた日本文化を持ち出し、近代主義を飛び越えようとしている。
完成された木造技術の論理的転用には共感する。そこで重要なのは部材と接続部である。そこから循環、生命、コアとカプセルといった形骸化したイメージが生まれている。社会全体が木造技術の発展に寄与していたこと、を踏まえると、分業、専門化が圧倒的に進んだ現代においては、例えばカプセルを取り替える事と畳や建具を取り替える事のコスト差は凄まじいものがあり、その点においてメタボリズムは失墜したように見られている。
しかし、その根本にある、部分と接続の関係は黒川紀章も言及しているように今日の情報化社会に通呈する思想が隠れているはずである。
8/28 10:00起床→銀閣→法然院→鈍行で浜松へ
<考えた事、京都>
スケールの欠落、公共交通の破綻、慈照寺の庭園はやはりすばらしかった。入れない、使えない余裕が必要だと思う。「空間」は余る一方である。
8/29 8:00起床→鈍行で横浜へ→アパグチ内覧会→打ち上げ参加→原崎と熱海へ
8/30 10:00起床→大崎のバイクで向上館→海鮮丼→熱い温泉→鈍行で横浜へ→選挙
by tsujitakuma
| 2009-08-31 00:35
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