2009年 12月 24日
考える、歩く |
既出ですが、宮台氏によれば、
「構築、あるいは人のなす区別は、必ず間違っているのに回避出来ない。まさに『不可能なのに不可避』。だから区別をなしつつ、区別を信じずに、前に進め!」
というのが脱構築の概念らしいのですが、
要するに、人間の思考には限界があることを構造主義は逆説的に露にしてしまったわけですが、それを乗り越える思考法(非思考法)が脱構築ということになるのでしょうか。
さて、四国には「お遍路」という修行があります。
wikipediaによれば、
江戸時代ごろから西国三十三箇所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。そのうちの一つが四国八十八ヵ所である。これを模して小豆島には小豆島八十八ヵ所霊場・江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小様々な巡礼地が作られた。「移し」または「写し」とも呼ばれ、四国遍路隆盛の証左とも言われている。
他の巡礼地と異なり、四国八十八カ所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。八十八ヵ所を通し打ち(後述)で巡礼した場合の全長は1200 - 1400km程である。自動車を利用すると、打戻りと呼ばれる来た道をそのまま戻るルートや遠回りのルートが多いので、徒歩より距離が増える傾向にある。一般的に、徒歩の場合は40日程度、観光バスや車を利用する場合は10日程度を要する。
とあります。
友人Sがお遍路したんですが、彼は根っからの機能主義者で、その彼がひたすら歩いたという事実があります。それを経験してから、彼の口から抽象化された「歩く」という言葉がかなりの頻度で飛び出すようになり、自分も「歩く」ということについて考えるようになりました。
Sは、「明確な目的を持たずしても、何かひたすら行動できる、それ自体が大事」というようなニュアンスで「歩く」という言葉を抽象化しています。
また、建築家の藤村龍至氏は、ゴールイメージを持たず、ひたすら模型を、条件を着実に積み上げて、作り続ける、という方法論で設計しています。
同じく建築家の青木淳氏は、ある形式をひたすら展開させることで機能(思考)を置き去りにするような方法論で青森県立美術館を設計しました。
他にも、漫画家の井上雄彦氏はストーリーを考える時、自分の思考ではなくて、ひたすらキャラクターの心象に潜り込み続ける、ということでリアルを超えたリアリティを獲得し、あのような比類なきストーリーと表情を生み出しています。
私事ではありますが、私が所属する403 architectureでは、「今」を確かなこととして捉え、ひたすら「今」に反応し続けることで一つの作品を生み出す、というようなことをテーマに活動しています。
また、タモリこと森田一義氏は思考を停止させ、耳で捉えた情報を脳を介さずそのまま吐き出すことで外国語風実況を可能にしています。
つまり、僕は仏教における苦行も脱構築と同じようなニュアンスで捉えられるのではないか、と思っています。
苦行は、意味もなくかなりきつい、例えば断食などをひたすら行うことで、仏に近づく=社会的価値を高めることを可能にします。意味もなきことをひたすらやり続けた結果、ある精神状態に達するというよりも、自動的に社会的価値が得られる(あの人は断食したからすごい人だ、と言う具合に)というのは、西洋思想史よりも遥かに長い歴史を有する仏教思想の一つの到達点だと思います。思考を乗り越えることが形式化し、且つ、その価値を保ち続けているわけですから。
従って、日本における現代の芸術思想が、思考を超えることを目指すのは、仏教に代表される東洋思想の到達点と酷似していて、偶然ではないような気がする、という話です。
もちろん、それだけではないですが、
「構築、あるいは人のなす区別は、必ず間違っているのに回避出来ない。まさに『不可能なのに不可避』。だから区別をなしつつ、区別を信じずに、前に進め!」
というのが脱構築の概念らしいのですが、
要するに、人間の思考には限界があることを構造主義は逆説的に露にしてしまったわけですが、それを乗り越える思考法(非思考法)が脱構築ということになるのでしょうか。
さて、四国には「お遍路」という修行があります。
wikipediaによれば、
江戸時代ごろから西国三十三箇所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。そのうちの一つが四国八十八ヵ所である。これを模して小豆島には小豆島八十八ヵ所霊場・江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小様々な巡礼地が作られた。「移し」または「写し」とも呼ばれ、四国遍路隆盛の証左とも言われている。
他の巡礼地と異なり、四国八十八カ所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。八十八ヵ所を通し打ち(後述)で巡礼した場合の全長は1200 - 1400km程である。自動車を利用すると、打戻りと呼ばれる来た道をそのまま戻るルートや遠回りのルートが多いので、徒歩より距離が増える傾向にある。一般的に、徒歩の場合は40日程度、観光バスや車を利用する場合は10日程度を要する。
とあります。
友人Sがお遍路したんですが、彼は根っからの機能主義者で、その彼がひたすら歩いたという事実があります。それを経験してから、彼の口から抽象化された「歩く」という言葉がかなりの頻度で飛び出すようになり、自分も「歩く」ということについて考えるようになりました。
Sは、「明確な目的を持たずしても、何かひたすら行動できる、それ自体が大事」というようなニュアンスで「歩く」という言葉を抽象化しています。
また、建築家の藤村龍至氏は、ゴールイメージを持たず、ひたすら模型を、条件を着実に積み上げて、作り続ける、という方法論で設計しています。
同じく建築家の青木淳氏は、ある形式をひたすら展開させることで機能(思考)を置き去りにするような方法論で青森県立美術館を設計しました。
他にも、漫画家の井上雄彦氏はストーリーを考える時、自分の思考ではなくて、ひたすらキャラクターの心象に潜り込み続ける、ということでリアルを超えたリアリティを獲得し、あのような比類なきストーリーと表情を生み出しています。
私事ではありますが、私が所属する403 architectureでは、「今」を確かなこととして捉え、ひたすら「今」に反応し続けることで一つの作品を生み出す、というようなことをテーマに活動しています。
また、タモリこと森田一義氏は思考を停止させ、耳で捉えた情報を脳を介さずそのまま吐き出すことで外国語風実況を可能にしています。
つまり、僕は仏教における苦行も脱構築と同じようなニュアンスで捉えられるのではないか、と思っています。
苦行は、意味もなくかなりきつい、例えば断食などをひたすら行うことで、仏に近づく=社会的価値を高めることを可能にします。意味もなきことをひたすらやり続けた結果、ある精神状態に達するというよりも、自動的に社会的価値が得られる(あの人は断食したからすごい人だ、と言う具合に)というのは、西洋思想史よりも遥かに長い歴史を有する仏教思想の一つの到達点だと思います。思考を乗り越えることが形式化し、且つ、その価値を保ち続けているわけですから。
従って、日本における現代の芸術思想が、思考を超えることを目指すのは、仏教に代表される東洋思想の到達点と酷似していて、偶然ではないような気がする、という話です。
もちろん、それだけではないですが、
by tsujitakuma
| 2009-12-24 14:25
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