LRAJ2010 report-消費の海に浸らずして新しい建築はないのか- |
規模や知名度が回を重ねるごとに大きくなり、今年のゲストにはついに東浩紀、磯崎新を呼ぶに至った。
個人的には編集作業を手伝い、内側からイベントを覗いていた。
まずこのような意義深いイベントに参加させて頂いたこと、そして成功出来たこと、嬉しく思っています、主催のTEAM ROUNDABOUTの皆様どうもありがとうございました。
以下感想。
極端に言えば、事前に課された読書リストを片手に会場を賑わす人の多さと、混乱に終わった議論の内容が象徴しているように、「ここでしか生まれ得ない議論」があまりなかったように思う。あくまで個人的には。
いやもちろん、磯崎氏自らのレガシー宣言、藤村氏がメタボリズム2.0を自ら捏造しそれを批判的に乗り越えることで示そうとした自身の立ち位置の下りを東氏が演出したこと、池上氏の喝、藤本氏の魅惑的なプレゼン、連氏+酒井氏のフレッシュど真ん中言説、出来上がったフリーペーパー、twitterやAARなどのウェブに残された記録、Y-PACによる動画撮影、ust配信、喜んで無償で手伝う学生など、話題には事欠かさないように配慮され、また突発的な障壁を乗り越えて実現され、アイコン、断片的な情報記録はそれぞれ歴史的に価値があり、且つ全体の出来事というアイコンとしても価値があると多くの人に認識されているはずである。
過去二回と比べ、blog等での事後評価が少ないのは、上記のような豊富な話題、コンテンツをその場で消費することによって(今回から導入されたtwitterやustによってその場にいなくても)ある種の盛り上がり感、これは藤村のいう政治的盛り上がり(敢えて口悪く言えば中身が骨抜きになること)を生み出し切ったこと(消費されてしまったこと)が原因であると、筆者は考えている。それをブロガーも感じ取り、「ustあったし」とか、「twitterで十分盛り上がったし」とかで事後評価の場を萎めてしまったようだ。
この事態は、LIVEでしか出来ないこと、その場での盛り上がりを最大限突き詰めた論理的帰結である。blogという重要な批評機関を失いかけている。
有名建築を見る時のように、スタンプラリーで学生が有名建築事務所へオープンデスクへいくように、LRAJに行くこと自体、twitterで参加すること自体、課題図書を読む事自体、盛り上がる事自体、裏方として参加する事自体が、そこかしこで目的となっている。
それは現代人の特徴として認めることは当然だとして、そこで何を話したか、ではなく、事を起こしたことそれ自体を価値とするような風潮が多分にあって、なんとなくLRAJすげー、東も磯崎も来るってさー、となんとなくすごい感じになっているのは事実で、これを成功と言う人はいるかもしれないがどう考えても肝心なのは中身だ。
この視点から見てみると、第一部のプレゼの中身は自動的にプレゼンテーターと一致し、質と評価が一致しやすい。それぞれ中身は確かにあった。しかしながら、相互の関係から生まれる論理のジャンプは見られず予定調和的であった。
問題は第二部。
最も考えなければならないのは、プレゼンテーター同士の相互関係から生まれる具体的ディヴェロップである。
あれだけ多様なアーキテクチャ界隈の論客を集め、「メタボリズム2.0」というかなり明確な(強引な)共通テーマがあったのだから、それは可能であったはずだ。
濱野氏の遅刻がかなり影響していると思われるが、それを差し引いても、「メタボリズム2.0」は藤村氏が提唱しようとしていること(いい意味で)と捉えられていたし、「批判的メタボリズム2.0」という概念がもともと用意されていたなんてだれも想像できなかったはずである。まして藤村氏がそれを担おうとしているなんて。最低限これは事前に提出しておくべきだったのだろう。多くの時間はこの炎上への布石に費やされてしまった。
だから、中身がなかったが、消費はされた。というのがここまでの筆者の結論である。
極端なLIVE化によって骨抜きになった議論を再び編集し、彼らは批判的に自らを捉える時が来たのかもしれない。
LIVE感だけではなくて、STATICな理論構成を事後的に編集する土壌が整ったのではないか。そこに時間的な差はあって然るべきである。
ここで、彼らの事後編集に期待を込めて、ひとまず自分が敢えて事後編集してみようと思う。
まず、藤村氏を除く当日の登壇者は批判的メタボリズム2.0なのか、メタボリズム2.0なのかどうか
連:アウトカムを担う建築がつくるネットワークとコミュニケーションプロセス、ネットワークのあり方(=コモンズ)がウェブ的
酒井:0,1による空間解析、膨大な変数を扱うこと、ウェブ空間で切断を何回も可能
池上:キーストーン=重要変数の見つけ方、新しい時間概念の提示、長い今を見据えろ=切断を先送りしろ
pingpong:ARによる変数抽出
藤本:メタ弱さ大事
磯崎:切断がないウェブ空間の建築への適用に可能性みてるよ
+東:一般意思2.0
結論を言えば、磯崎氏以外はメタボリズム2.0だと思っている。
批判的にこれらを捉えるってことはこれらの限界をあぶり出し、それを内包させて乗り越えるってこと。
藤村氏はそれをしたかった。
倉方氏は、藤村氏の意を汲んで、ずっと結局は物理的切断を乗り越えるためのパスを各プレゼンテーターに投げ続けたわけだが、時間が足りず。驚異的な編集でキラーパス連発だったのだが。
つまるところ、批判的たりうるかどうかは、切断を如何にして乗り越えるか(時代が変わっても未だに!!)、この一点にかかっていたといっても過言ではない。このテーマは結局昨年の数々のイベントからずっと一貫している。
そのヒントがプレゼンテーターそれぞれが提示したことから見えてきたはずで、
例えば、
アーキコモンズを前提とした持続的な建築更新の可能性だとか、pingpongによる変数抽出→0,1による空間解析によってなるべくウェブ上で切断を繰り返し可能な限り合意形成をとり続けることだとか、それらを池上氏の「長い今」と藤本氏の「メタ弱さ」で思考バックアップするだとか、最終的には40年同じことを言い続けている磯崎氏に認めてもらって、政治的威力も発揮だとか。さらにさらに東氏の変数抽出としての一般意思2.0理論も上乗せすれば完璧ではないか。
上記のような相互関係は容易に想像がつく。
そうであるなら、プラクティカルに彼らが連携して、一つ架空でもいいからプロジェクトを進めて欲しい。
藤村氏が答えあぐねていた「ヴィジョン」はこのようにしてしか生まれない気がする。
以上が筆者の事後編集によるひとまずの成果である。
最後に。
意を決して消費の海に浸りかけて尚、夢を見せられる可能性を彼らは残している、という事実だけを僕は信じている。
このような確かな事実を残してくださったTRAの皆様には最大限の敬意を評し、ここに記します。