世界が、そう簡単に何度も終わっては困る |
世では、セカイ系なる概念が定着しつつあって、僕はあまり難しいことは分からないので正確にはわからないけれど、どうやらゲームやアニメの種類の名前で、主人公の心情とそのゲームやアニメ世界の在り様が直結連動し、主人公が失恋したら世界も終わるというようなゲームやアニメをセカイ系アニメ、ゲームと呼ぶらしい。
エヴァンゲリオンから2000年代前半まで流行ったのだと。
何故このようなセカイ系が世に受け入れられたのか。それは世の中の人達の世界も、ゲームやアニメのように簡単に終わってしまう構図が出来ていたからだ、というような分析は腐るほどされているし、現実がゲームに近づいているような心象をそこかしこで感じる。
人生をゲームのように捉え、難関をクリアして、どっかでつまづいたらゲームオーバー的な。
有名高校→有名大学→テニスサークル→就活→有名企業
それ以外はフリーターやニートや負け組という名前のレッテルを貼られる。
建築設計でも大学卒業後は有名ゼネコンに入るか、設計事務所で修行して30くらいで独立するか。そーゆー攻略本みたいなやつがある。僕らは攻略本が欲しいのだ。だからオープンデスクに行くし、イベントに参加するし、OB訪問する。
このような倫理観がほぼ自動的に僕らに内在されてきた。
倫理観ってのはその社会が作るものだから、なかなか覆せないし、覆せたとしても反社会的人間になってしまうので、このような倫理観の中でしか、僕らは生きていけない。少なくともこの社会を否定することはこの社会に育てられた自分を否定することになる。
いろいろな物事を疑って自分なりに定義し直して主体的に生きるような生き方は大事だと思うけど、倫理観まではなかなか疑えない。
でも、ゲームはやり直せるけど人生はやり直せない。
ゲームでのゲームオーバーを人生のゲームオーバーとするのは無理があるだろう。っていうか、今の社会ではゲーム的に人生進めさせといて、やり直しがきかんのだ。勝ち続けないと終わってしまう。リストラ、浪人、離婚、失恋、介護、自殺、借金、内定取り消し、内定ゼロ、アラサー、アラフォー、負け組、イジメ、どんだけ勝ち続けないといけないのだろう。このゲームは相当な精神力がないと厳しいのでは。
だから、何度もやり直しがきくように東浩紀氏はBI導入を推奨しているはずである。あの人やさしいから。
ゲーム的リアリズムという価値観とBIは相性がいいのだ。
だが、BIは相当先の話である。
当然、私たちはどうやって勝つかというより、どうやって負けないかを思考するようになる。
負けなければいい。
負けたら終わり。
だからみんな大学にいって就活して結婚に焦る。
負けなければ良いと言うことと、いい試合をしているかどうかは別の話であって、負けなければ良いと言うことが目的になると、試合内容は骨抜きになってしまう。
人生は、サッカーの試合でもゲームでもないから、重要なのは試合内容。
切迫した私たちはどのように生きていいのか。
・いい試合をして負けてもなんとかなるというメンタリティを持つ
・負けないようになんとかいい試合をする
社会の変化を期待出来ない今、選択肢はこの2つしかない。
あ、あともう一つ、
・勝ちとか負けとかではなく、ひたすら目の前のことに集中する
というのがある。
以前一度取り上げた、「歩く」ということだ。
やはり現在の社会では、「歩く」ことが最も精神安定に近いと思われる。
そのためには最終目的を捨てる必要がある。結婚も就職も一旦捨てる必要がある。目的を捨てた上で多様な行動を求められる。コミュニケーションを維持しながら、目的を捨て、目の前の行動に集中する。その積み重ねによって結果的な勝ちに気がつくというプロセスが、現代日本社会においては最も精神負荷を抑え、豊かに生きていける生き方なのではないだろうか。
ひとまず、BIが実装されるまではこの生き方しか選択肢がないように思う。
一度きりの人生で、世界が、そう簡単に何度も終わっては困るのだ。
俺は、中身がないゲームみたいな価値観で生きていきたくはない。
以上は、自分への戒めである。