建築夜学校第二夜「郊外化/ショッピングモール化/多様化」のレポート |
日 時:10月8日(金)18:00~20:30(開場17:30)
パネリスト:速水健朗(ライター)
山崎 亮(Studio-L代表取締役/マルヤガーデンズ)
八束はじめ(芝浦工業大学教授/ユーピーエム代表取締役)
コメンテータ:東 浩紀(東京工業大学特任教授/早稲田大学教授)
モデレータ:藤村龍至(藤村龍至建築設計事務所代表/東洋大学講師/建築文化事業委員)
会場:建築会館ホール(東京都港区芝5-26-20)
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<夜学校という枠組>
先週末と今週末、建築会館にて毎年行われている建築夜学校が行われた。
先週の第一夜「シュリンキング/コンパクトシティ/低成長時代の建築」ではパネリストに大野秀敏、森 雅志(富山市長/富山ライトレール会長)、竹内昌義、コメンテータに三浦 展を迎えて行われている。モデレーションは同じく藤村龍至氏による。
この建築夜学校を藤村氏がモデレーションするようになってから、3年目である。
一年目の2008年は第1夜は「『タワーマンション』とグローバル・シティ。パネリストは、大山 顕、山梨知彦、北 典夫、コメンテーターに東浩紀、モデレータは南後由和と藤村龍至が務めた。
第2夜は「『ショッピングモール』とローカル・シティ」と題して行われ、パネリストに中村竜治、岩佐明彦、芝田義治、関谷和則、コメンテーターには若林幹夫モデレータは引き続き、南後由和と藤村龍至。
二年目の昨年は「データ、プロセス、ローカリティ」というテーマで一夜、二夜ともに行われている。第一夜はモデレータに濱野智史、パネリストに小嶋一浩、中山英之、山梨知彦、コメンテータに難波和彦、江渡浩一郎を迎えて行われた。第二夜では、五十嵐淳、家成俊勝、井手健一郎、コメンテータには古谷誠章、鈴木謙介、モデレータは引き続き、藤村龍至、濱野智史となっている。
そして今週末、建築夜学校第二夜が行われ、筆者も会場に足を運んで聴講した。ちなみに第一夜には参加していない。
モデレーションを担う藤村氏の目的は明確だ。三年連続して。
「二極化」の自明性を論理的に提示することである。
東京と地方、アトリエと組織、小住宅とタワーマンション、都市化と郊外化、情報化と物質化。一年目は「タワーマンション」「ショッピングモール」という具体例を用いて現状を示し、二年目は「プロセス」を媒介にして、データ(情報化)とローカリティ(郊外化)を結びつけるという流れである。三年目ということもあり、今回は最もコンセプチャルな、今後の社会像を直接的に描くためのものとなった。
三年目、今年の夜学校第二夜の結論から言うと、そういう「二極化」あるいは、「格差」は良くない、ということではなくて、それはそろそろ前提として、あるいは自然条件として扱った上で自分たちがどんな思考実験を行うことができるかにシフトしましょう、ということだったように思う。もう少し、藤村氏に引き寄せて言えば、政治にコミットして「格差」を前提として双方を取り込んだ全体の枠組みをデザインしましょう、ということになろうか。東氏に言わせれば、「格差は『べき乗則』によるものである。」ということを認めましょう。ということである。
LARJ、city2.0によってウェブ+アートとの結びつきによる建築の新しい姿勢がひとまずの帰結を迎え、このシンポジウムや地方行脚、自身の超線形設計プロセスが提示する建築に置ける政治性への可能性の提示という方向もまた枠組みがはっきりしてきたのではないだろうか。
建築と、ウェブ、アート、政治。ここまで幅広く枠組みを広げる藤村氏のフットワークはもはや異常を超えて貴重である。
さて、本題。
<第一部>
第一部では、速水健朗氏がショッピングモール誕生の歴史と現在におけるその深化について、八束はじめ氏は自身の研究でもある「東京計画2010」=東京に日本の全人口を詰め込み、メガコンパクトシティにしようとする過激な思考実験を表明した。そして三人目、山崎亮氏はマルヤガーデンズにおいてショッピングモールへコミュニティを挿入する具体的取組を紹介した。前二者は二極化の都市化の側を、後者はその郊外化、あるいは地方の側を抑えるプレゼンテーションであった。
そして東浩紀氏がコメンテータとして加わった第二部である。
<第二部>
[ismからingへ]
まず、東氏から重要な前提が提示された。ドバイでも日本でもヨーロッパでもショッピングモールという空間はどこでも完全に同じで、ショッピングという行為自体がもはや主義を超えて世界中で定着していると。
八束氏はこれを「ismを宙吊りにしたまま、進行するing」と表現した。動物化である。ショッピングということに注目すれば、ショッピング+コミュニティというマルヤガーデンズの事例は先端的であるという具体的指摘も速水氏からあり、ひとまず、ショッピングは考える余地があるだろう、というか、それを自然条件のような大前提として考えた時に余地があるだろう、という枠組みが整理された。
この都市化大前提の側から、議論は藤村氏によって徐々に都市化の裏側で起こっている地方問題へと引き寄せられることとなる。
[コンパクトシティとしてのショッピングモール]
まず藤村氏は、青森市佐々木市長が除雪効率担保のためのコンパクト化を示す例や第一夜の富山市の例を引き合いに出し、インフラの維持コスト削減のためのコンパクトシティ政策は国の規制緩和と基本的に相反関係にある、という矛盾している現状を再確認した。富山市の成功は市長のパーソナリティによる特例で、基本的には郊外の人口が7割だから都市部のコンパクト化は多数決の原理が足かせとなって難しいのである、と。
現状では、強引にやって利点を示す、という選択肢しかなく、強引にできるのはディベロッパーであり、そこでショッピングモールを都市部へ誘致するという解決策があるのではないかという提示が速水氏からなされた。
しかし、この先週へも接続されようかという流れを八束氏と東氏が打ち砕く。
[八束から見る地方都市]
・地方都市は知った事ではない。
・東京をメガコンパクトシティに。
・地方に人は住まなくても良い。考えてみることは必要ではあるが。
・コンパクトシティはサイズの問題ではなく、メガロポリスこそインフラコストの話をしなければならない。通勤など横への広がりは動脈硬化なので後は縦へ伸びるしかない。
・コルビジェの輝く都市の無意識的実現である。
・結局格差というものが否定すべきもののように思っているが、肯定しても良い。
・自民党の地盤は地方だった。それが国土計画の分散策へ、つまり無駄道路へとつながっている。
・格差は受け入れざるを得ない。
[東からみる地方都市]
・自分は地方は経験していない。
・東京の読者だけが相手。
・インターネットの出現でより格差。
・都市文化だけがどんどんつながっていって後は衰退。
・中心にショッピングモール集約、という形にはなるだろう。
・限界集落数千あって水道の維持の問題になってきてる。現実問題として。
という二者の地方都市無視宣言、というかそれは当然の話で意思とか介在しないわけです、だから前提として話を進めたいのです宣言は、東氏の次の言葉群によって達成される。
要約すると、
人間でも何でも、一つ一つの要素が多様で複雑なネットワークを構築すればするほど、その振る舞いは、人間の意思に関わらず、物理的計算=確率論=べき乗分布によって必然的に決定されるのであって、現状のインターネットの普及や交通の発達によって十分にそれが達成された今、格差が生まれることや地方が衰退すること、大都市だけがお互いにネットワークされ生き残っていることはもはや自然原理くらい自明なことなのである。極端に言えば、人間の判断はすべて自分本位だけによって達成されるのであって、それに反して倫理的に振舞おうとすること(例えば格差を否定し、地方を救おうとすること)は、時代遅れというか無意味な取り越し苦労である。その前者における究極性をショッピングモールは既に体現しているのではないか。だから氏はショッピングモールに興味があるのだ。
という話なのである。論理的に飽和している。あるいは否定が論理的に機能しない。
[山崎氏から見る地方都市]
この現実受け入れましょう、というなんともいえない絶望感(東氏は既に深く深く体験済であるはず)を会場が味わっている中、山崎氏がすかさず反論する。圧倒的な具体性で。というか反論のような振る舞いを意識的に選択したと言って良いだろう。「自分は逆に東京以外にしか興味がない」と。それはつまり、東京における人口増減モデルはもはや過去の理論の延長にあり、そうではなくて人口が減少している地方や限界集落において人間はどのように幸福に暮らしていけるかを考えた方が圧倒的に現代的だ、という「勇ましい」振る舞いによって会場とtwitterのTLを味方にしたのであった。
[まとめ]
藤村氏は先週の議論も踏まえてこの状況を世代間で俯瞰し、
大野氏:地方、縮小時代⇔八束氏:大都市のみ成長
山崎氏:コミュニティ⇔速水氏:ショッピング
と位置づけ、この二極化は別々の論理で動いていることではなく、同一の状況の裏表なのである、と語句を強めた。むしろ我々は両方の枠組みをデザインしなければならないのである、と。どっちがいい、という問題ではないということは筆者からも援護射撃しておきたい。藤村氏も言うように「山崎氏が勇ましい」とか、「地方無視すんな東マン」とかそういう好き嫌いではなくて、その前提を共有した上で何が可能かを考えましょう、と。それは国土計画しかないです、と。そのためには建築家が政治にコミットする必要があるのです、と。
ともあれ、国土計画は未だに丹下健三の「国土の均衡ある発展」から脱出できておらず、今こそ格差を認めた上でのトータルデザインが必要なのである、という希望あるまとめで夜学校は幕を閉じた。
[感想に代えて]
筆者からすると藤村氏は二極化に対するスタンスが独立当初から一貫していて、いいなぁと思った。と同時に、ある到達点というか、わかっちゃった感、つまりに詰まった感も感じている。この政治的話題でも、city2.0でも、LRAJでも。実際に詰まっているかは筆者は当然知らないが、この日の会場の雰囲気がそれを感じさせた。
だとするなら、このまま、建築から政治もアートもウェブも思想もメディアもキープしたままつなげて、願わくば、多分野の完全な融合を見てみたい。氏には政治だけを語って欲しくはないしアートだけを語って欲しくもないし、ウェブだけを語って欲しくもない。当然建築だけを語って欲しくもない。例えば山崎さんと東さんを引きあわせられるということの価値を、私たちはもっともっと自覚する必要があるのではないだろうか。筆者が氏に期待するのは、単なるイキオイやTL上の盛り上がりではなくて、人間同士の化学反応とその創造的結果である。氏にはそういう現代的な、曖昧な、定義を避けた建築家像を僕らに提示していただきたい。