2010年 11月 19日
コミュニティの生成と建築(家)の存命 |
とあるブックレビューで丹下健三の書籍の感想を書かせていただいた。
丹下氏の言葉は開放的だ。
さて、今、僕が気になる若手建築家を列挙してみると、藤村龍至氏、dot architects、西田司氏、山崎亮氏と、彼らの言葉も開放的だということに気づいた。どうやら彼らの特徴は、プロセス云々、特徴はあると思われるが、トドノツマリ、伝えたいことと、伝わること、シニフィエとシニフィアンの差がほぼない人たちと言っても差支えないように思う。開放的であろう。かなり雑に言ってしまえば、所謂一般へのアプローチを兼ね備えているということになろうか。
一般とは、建築についての専門知識を持たない集団の俗称ということにしておく。今や当たり前だが、日本において、いや世界中でも、建築家の作った建物は全体の中の1%にみたない。残りの99%以上が「一般」である。周りを見渡しても、建築家が作った建物は見当たらないし(珍しすぎて学生ツアーが組まれるほどだ)、僕が生まれ育った建物も「一般向け」のハウスメーカーが建てたものだ。ずいぶんと最近まで僕は建築の力を実感できていなかった。ヨコハマアパートメントという名作に、直に触れ、生活することで初めて、建築の力を実感できたといってよい。まだほんの壱年前のことだ。
西沢立衛の言葉は面白いし、磯崎新の言葉からは心意気を感じるし、伊藤豊雄の建築が目指す地平も分かっているつもりだ。学生コンペの優秀賞にも面白さを感じる脳みそは持っている。
しかしどうも、「私」から遠いというのが、率直な思いなのである。
建築の歴史を紐解いてみても、近代以前はハタと実感が途切れてしまう。日本においては維新以前。
たかだか100年しか私は実感できない。
思うに、今一線で活躍している彼らは建築やその歴史を実感しているだろう。さて、どのように?
親が建築家?幼いころからアートが身近に?自然とのめりこんで?
僕はここで、いたって普通の家に生まれた自分の境遇を嘆くつもりはないし、いわゆるブルジョワジーな人間だけが建築家になりやすい、と嫉妬をさらすつもりもない。
浜口隆一が言うように、建築家という職能は本質的に高尚なものであったのだ。脈々と。
高尚とは専門的と言い換えてもよい。建築における専門的な知識、歴史実の相対化、スケールへの感度、それらは皆、一般の人たちが預かり知らない価値を担保するという意味において、建築家の絶対性を強める材料となっている。そういう建築家は今後も残るだろう。ただ、単純に住宅着工数は減るし、人口も減るので、絶対数は今よりも絞られてくる。とはいえ、そういう数パーセントの需要は残るし、それに応える必要もあろう。
絞られていったときに、さて、残りのあぶれた人たちはどうするのだろうか。選択肢としては二つある。
建築家であることをあきらめて転職するか、建築家の枠組自体を広げて建築家たるか。である。
今はその瀬戸際である。
私は、上記した4組の若手建築家は皆、建築家の枠組自体を広げて建築家の位置を社会的に担保しようとしている人たちであると認識している。
だから、拡張する前の建築家の意義とは違うところに「も」意義を求めなくてはいけない。
すなわち、「空間」ではないところに「も」価値を見出すことが建築家の存在意義を担保するのである。
それが「コミュニティの生成」であると筆者は思うのである。
コミュニティ、と言っても、昔ながらの向こう三軒的な結束したものではなくて、現在の関係性を建築家は照射すべきである。というか実現可能性を見極めるのであれば必然的にその方向へ進むだろう。この点、山本理顕氏は一貫していて、従来のコミュニティの根本を担う家族制度を疑った上でいかなるコミュニティが建築で具現化出来るかということを地域社会圏では提唱されている。
地域社会圏でのコミュニティの作り方は、建築を作る過程はすっ飛ばしてその建築がいかに機能するかに重点をおいているから、プロセスという枠組みでは計れないかもしれないが、コミュニティを作る、という点では等しく評価されよう。
どちらも要するに、マジョリティにアプローチしているのである。
そもそも空間の認識や空間構成、建築の成立過程への示唆といった専門的価値は文字通り一般向けではない。だからそこに求めても行き止まりであることには変わらない。
この袋小路を回避するための道が、原広司の言うところの出来事への傾倒である。(現代においてはすべての日本の建築家はこの言説の影響を受けているといってよいので、純然たる建築家の枠組に位置する磯崎や伊東や西沢もこの流れに位置しているが、程度の問題で上記四組はそのバランスがより出来事に傾倒しているという認識)
極端に言えば、空間は空間だけでも成立し得るが、出来事は人間と時間を想定しなければ成立しない。もう少し編集をかけよう。空間は専門的だが、出来事は一般の人も理解可能だ。
自らの想定の中に、(自分以外の)人間が時間を含んでいるということが何よりも重要なのである。建築が設計段階で切断されていないのである。設計概念の中に時間があるのだ。懐を広げて。
そうなってくると建築家は、出来事として、良い出来事を求めることになる。良い出来事とは果たしてなんだろうか。
直接的にその建築に関わった人が幸せになれば良い出来事と言って良いだろう。
個人的には人類にとって幸せとは良質なコミュニケーションから生まれるので、良い出来事とは良質なコミュニケーションを生む建築ということになり、良質なコミュニケーションが竣工前でも、竣工後でも継続して起こる良い出来事を建築で提供しようというのが、上記四組の目指しているところではないだろうか。敷衍すべき重要な点は、彼らにとっては良い空間は前提であるということだ。コミュニティや出来事を作るだけなら建築家でなくてもできる。それに加えて、オルタナティブな価値を建築に与えることによって、建築を延命させようとしているのである。
さらに言えば、山本理顕が提唱する地域社会圏に価値を接続させたり、石山修武のいう開放的な道具としての建築を持ってして人間の尊厳を表現することへ共鳴したり、あるいは、社会企業的な振る舞いとして頭角を現すことは上記の流れの上にあるといえるだろう。
この流れの根本にあるのは、コミュニティを建築家が作らなければ、建築家の概念は拡張され得ないというのっぴきならない危機感である。
私は現状をこのように捉えている。
この新しい流れは、メタ(専門)からベタ(一般)へなし崩し的に移行しているのではなくて、メタもベタも両方必要です、という意識を持って建築家という職能を全うしているからこそ、意義深いのである。
丹下氏の言葉は開放的だ。
さて、今、僕が気になる若手建築家を列挙してみると、藤村龍至氏、dot architects、西田司氏、山崎亮氏と、彼らの言葉も開放的だということに気づいた。どうやら彼らの特徴は、プロセス云々、特徴はあると思われるが、トドノツマリ、伝えたいことと、伝わること、シニフィエとシニフィアンの差がほぼない人たちと言っても差支えないように思う。開放的であろう。かなり雑に言ってしまえば、所謂一般へのアプローチを兼ね備えているということになろうか。
一般とは、建築についての専門知識を持たない集団の俗称ということにしておく。今や当たり前だが、日本において、いや世界中でも、建築家の作った建物は全体の中の1%にみたない。残りの99%以上が「一般」である。周りを見渡しても、建築家が作った建物は見当たらないし(珍しすぎて学生ツアーが組まれるほどだ)、僕が生まれ育った建物も「一般向け」のハウスメーカーが建てたものだ。ずいぶんと最近まで僕は建築の力を実感できていなかった。ヨコハマアパートメントという名作に、直に触れ、生活することで初めて、建築の力を実感できたといってよい。まだほんの壱年前のことだ。
西沢立衛の言葉は面白いし、磯崎新の言葉からは心意気を感じるし、伊藤豊雄の建築が目指す地平も分かっているつもりだ。学生コンペの優秀賞にも面白さを感じる脳みそは持っている。
しかしどうも、「私」から遠いというのが、率直な思いなのである。
建築の歴史を紐解いてみても、近代以前はハタと実感が途切れてしまう。日本においては維新以前。
たかだか100年しか私は実感できない。
思うに、今一線で活躍している彼らは建築やその歴史を実感しているだろう。さて、どのように?
親が建築家?幼いころからアートが身近に?自然とのめりこんで?
僕はここで、いたって普通の家に生まれた自分の境遇を嘆くつもりはないし、いわゆるブルジョワジーな人間だけが建築家になりやすい、と嫉妬をさらすつもりもない。
浜口隆一が言うように、建築家という職能は本質的に高尚なものであったのだ。脈々と。
高尚とは専門的と言い換えてもよい。建築における専門的な知識、歴史実の相対化、スケールへの感度、それらは皆、一般の人たちが預かり知らない価値を担保するという意味において、建築家の絶対性を強める材料となっている。そういう建築家は今後も残るだろう。ただ、単純に住宅着工数は減るし、人口も減るので、絶対数は今よりも絞られてくる。とはいえ、そういう数パーセントの需要は残るし、それに応える必要もあろう。
絞られていったときに、さて、残りのあぶれた人たちはどうするのだろうか。選択肢としては二つある。
建築家であることをあきらめて転職するか、建築家の枠組自体を広げて建築家たるか。である。
今はその瀬戸際である。
私は、上記した4組の若手建築家は皆、建築家の枠組自体を広げて建築家の位置を社会的に担保しようとしている人たちであると認識している。
だから、拡張する前の建築家の意義とは違うところに「も」意義を求めなくてはいけない。
すなわち、「空間」ではないところに「も」価値を見出すことが建築家の存在意義を担保するのである。
それが「コミュニティの生成」であると筆者は思うのである。
コミュニティ、と言っても、昔ながらの向こう三軒的な結束したものではなくて、現在の関係性を建築家は照射すべきである。というか実現可能性を見極めるのであれば必然的にその方向へ進むだろう。この点、山本理顕氏は一貫していて、従来のコミュニティの根本を担う家族制度を疑った上でいかなるコミュニティが建築で具現化出来るかということを地域社会圏では提唱されている。
地域社会圏でのコミュニティの作り方は、建築を作る過程はすっ飛ばしてその建築がいかに機能するかに重点をおいているから、プロセスという枠組みでは計れないかもしれないが、コミュニティを作る、という点では等しく評価されよう。
どちらも要するに、マジョリティにアプローチしているのである。
そもそも空間の認識や空間構成、建築の成立過程への示唆といった専門的価値は文字通り一般向けではない。だからそこに求めても行き止まりであることには変わらない。
この袋小路を回避するための道が、原広司の言うところの出来事への傾倒である。(現代においてはすべての日本の建築家はこの言説の影響を受けているといってよいので、純然たる建築家の枠組に位置する磯崎や伊東や西沢もこの流れに位置しているが、程度の問題で上記四組はそのバランスがより出来事に傾倒しているという認識)
極端に言えば、空間は空間だけでも成立し得るが、出来事は人間と時間を想定しなければ成立しない。もう少し編集をかけよう。空間は専門的だが、出来事は一般の人も理解可能だ。
自らの想定の中に、(自分以外の)人間が時間を含んでいるということが何よりも重要なのである。建築が設計段階で切断されていないのである。設計概念の中に時間があるのだ。懐を広げて。
そうなってくると建築家は、出来事として、良い出来事を求めることになる。良い出来事とは果たしてなんだろうか。
直接的にその建築に関わった人が幸せになれば良い出来事と言って良いだろう。
個人的には人類にとって幸せとは良質なコミュニケーションから生まれるので、良い出来事とは良質なコミュニケーションを生む建築ということになり、良質なコミュニケーションが竣工前でも、竣工後でも継続して起こる良い出来事を建築で提供しようというのが、上記四組の目指しているところではないだろうか。敷衍すべき重要な点は、彼らにとっては良い空間は前提であるということだ。コミュニティや出来事を作るだけなら建築家でなくてもできる。それに加えて、オルタナティブな価値を建築に与えることによって、建築を延命させようとしているのである。
さらに言えば、山本理顕が提唱する地域社会圏に価値を接続させたり、石山修武のいう開放的な道具としての建築を持ってして人間の尊厳を表現することへ共鳴したり、あるいは、社会企業的な振る舞いとして頭角を現すことは上記の流れの上にあるといえるだろう。
この流れの根本にあるのは、コミュニティを建築家が作らなければ、建築家の概念は拡張され得ないというのっぴきならない危機感である。
私は現状をこのように捉えている。
この新しい流れは、メタ(専門)からベタ(一般)へなし崩し的に移行しているのではなくて、メタもベタも両方必要です、という意識を持って建築家という職能を全うしているからこそ、意義深いのである。
by tsujitakuma
| 2010-11-19 01:56
| essay