2010年 12月 09日
ぼくらの世代の建築家 |
Y-GSAの同級生だった福井啓介氏が千葉県流山市の地元自治会の集会所を設計したと聞き、彼の案内で出来上がったばかりの建築を見せて頂いた。

※すべて撮影筆者
区画整理された住宅地がのっぺり貼りつく谷戸地形の隅っこにあるこの集会場は小さな公園に併設されている。敷地のすぐ南側が崖になっていて、公園ともども、日中にも関わらず敷地はとても暗いしじめじめしている。
肝心の建築はというと、内部空間は120平米ほどの大きなワンルームと設備、納戸、トイレが収められ隅っこに寄せられたコアスペースとで構成されている。
最も大きな特徴は、天空に持ち上げられた大きな屋根である。寄棟の1/4を切り取り、頂部をめいっぱい引き上げた形状をしている。頂部の高さは実に9m。稜線がズレ、そこから光を入れる。敷地が暗いということを最大限考慮した結果、建物自体の背を高くすることでなるべく多くの時間、日光を取り入れようという意図である。

さてこの建築、僕が知ってる建築家のそれとはどうも毛並みが違う。
まず、プログラムが「集会所」である。
僕の知っている建築家は、小住宅か中規模の集合住宅(多くても10戸程度)か、一気に規模と名声を大きくして市役所や美術館、学校を設計している。学生の時に設計した用途もだいたい上記にあるものと同じだ。
磯崎新「都市からの撤退」や隈研吾「パドックからカラオケへ」という著名な建築家による日本の建築界を現す言説を敷衍するまでもなく、駆け出しの若手建築家は、住宅でスタートするのが、建築界では常識だろう。
ところが福井氏が設計したこの建物の用途は、
「集会所」
クライアントは
「自治会」
である。
そして、福井さんはどこの事務所にも務めず、弱冠27才にしてこの建物を竣工させた。20代、若手建築家の処女作が住宅ではなく公共である。プロポーザルコンペで勝っても頓挫が後を絶たない公共建築を実現させてしまった。
集会所という慣れない名詞が象徴するように、建物内には、パイプ椅子や生花や学校にあるような革スリッパや金網とタワシ素材で出来た泥落としなどの、「地域のおじいちゃんやおばあちゃんの顔がすぐに浮かんでくるような」小物や家具は、僕の知っている建築家の設計した建築にはないものばかりで、本当に不思議な感覚を僕に与えてきたので正直最初は少し戸惑った。

学生の時から、福井さんはどこかそういう泥臭さ、地域っぽさを醸し出していたことを思い出すまで、その違和感は消えずに僕の脳みその表層に留まっていたのだが、ひとたび福井さんのキャラクターを思い出したとたん、僕は福井さんにいろいろな質問を開始した。
「住民からの要求は?」
「予算は?」
「住民との話し合いはどのようにどれくらいあったの?」
聞き進めていくと、もう一つ、おかしなことが露呈してきて、僕の直感は先鋭化した。
どうやら、福井さんは、この建築が建つまで、30回近くも地域住民の代表と話し合いを重ね、暗い場所という地域の共通言語を示し、「日光を取り入れ明るくする形です」という形の説明によって世の建築家が提示しやすい特殊な形から生まれる不安感を素通りし(デンマークの建築家集団BIGのアイコニックな建築形状の民主性に匹敵する説明によって)、住民の心を掴み、自ら施工に参加して経費を浮かせて、特別な法規が適用される南側崖の測量と地質調査も自分で行って、敷地のごみ拾いに参加して、大量の倉庫の移動まで手伝ったのだそうだ。
基本的に建築家の仕事は基本設計と実施設計で、構造家や設備家と協働して設計した図面を大工さんや水道業者やクロス業者に渡して的確に指示を送る指揮者のような存在だと認識しているが、福井さんの取り組み方はそれとは少し雰囲気が違う。
そうこうしている内に、住民のモチベーションがどんどんどんどん上がっていたのだと言う。簡単な施工や物置の移動などは住民も積極的に参加し、落成式では地元の和太鼓チームや伝統踊りのグループを招待し、市長も参加するほど大きなものになった。
違和感の正体は、
<20代の建築家の処女作となった「パイプ椅子」のある「集会場」は、「自治会への説明会」や「施工」や「清掃」や「測量」などの仕事も積極的に引き受けた結果、実現したのである。強烈な「地域コミュニティ」の生成と共に。>
という、従来の建築家のイメージを覆す名詞群の塊だった。
この圧倒的な齟齬を、どう捉えれば良いか。
もちろん、この齟齬によって、あるいは経験の少なさによって、ディテールが詰め切れていなかったり、空間の抽象性が損なわれていたり、素材の使い方に無理があったり、建築的専門的見地からいくらでも批判することは可能だ。だが、それを咎めたり指摘したり、或いは、光が思ったより入っていい空間だね、とか、形が面白いとか、配置計画がなんとかかんとか、僕にはそういう言葉は生きたものとして感じられなかったので、言及しなかった。もちろん、そういう言葉を否定するつもりは毛頭ない、むしろそのような専門的見地から生まれる建築言語の重要性は、圧倒的な歴史によって担保されていると認識している。ただ僕にはそれらを言及することが出来なかった。
そういう建築言語が生まれてきた、僕の実感できる戦後の日本建築界は1960年代の磯崎新による「都市からの撤退」という至言から始まる。これは丹下の物理的失敗と情報的成功を同時に乗り越えるための応急処置であって(万博で磯崎は本当の意味で絶望したに違いない)、そこから抽象的世界へ閉じこもるしか道がなかった70年代、屈折したポストモダニズムの理論を社会に吸い出されて失敗した(という話をよく聞く)80年代、その失敗の反省に当てられた90年代、SANNAと小住宅が一世を風靡した00年代を経て、今も我々は、磯崎に処方された延命期間にギリギリ乗っかっていると言って良い。
彼の話を聞いていて、奇しくも、そのような建築の歴史の浮き沈みに対し、一貫したポーズで構え続け現在性の定点となっている僕達の校長だった山本理顕氏の言葉を思い出した。地域社会圏という400人の地域を再設計する課題で良く仰っていた言葉である。
「この地域社会圏には若い建築家が一人ついて、地域をオーガナイズしていく。建築家の本来の力、空間の力はここでこそ発揮される。」
この言葉が福井さんにそのまま当てはまる。この町内会は160世帯、350人程度の規模だと言う。福井さんは、数々の公共事業で行政に立ち向かった山本理顕氏の理想を実現させるための具体的な道筋を示したと言えるだろう。既に彼は地域住民の圧倒的な信頼を獲得し、行政の窓口も抑え、政治にもコミットし得る、山本氏の想像するような、コミュニティ・アーキテクトという職能の道を「勝手に」切り開いたとは言えないだろうか。
決して希望的観測ではなく、建築家の職能が広がっている、と僕は感じている。
今の日本の建築界を鑑みると、僕個人としては、従来の建築家像とは異なる、新しい流れをいくつか感じる。
・建築的思考によって地域のコミュニティを醸成する流れ
・ウェブからメディアにコミットし、積極的なセルフマスコミュニケーションによって建築家のプレゼンスを高める流れ
・第三世界へ接続し、世界規模の需要を満たす流れ
上記のような建築家が建築家という枠組みで語られるかどうかはさして問題ではない。建築家ではないと断言する人も当然いるし、僕のように職能が広がったという人もいるだろうし、上記以外の選択肢を挙げる人もいるだろう。
でも、変化が起こっていること自体が僕にとっては何より重要だ。
学生の時見た雑誌やコンペや課題や数々の建築家の言説の中には全く存在し得なかった、実感できる社会から、着実につながっていく。建築家の、都市への回帰があるとすれば、僕は、一つの選択肢として福井さんのような建築家像に、非常に共感を覚える。
変化の先にある、新しい建築家像を福井さんには見せて頂いた。その萌芽に立ち合えて光栄である。
尊大な希望をどうも有難う。


※すべて撮影筆者
区画整理された住宅地がのっぺり貼りつく谷戸地形の隅っこにあるこの集会場は小さな公園に併設されている。敷地のすぐ南側が崖になっていて、公園ともども、日中にも関わらず敷地はとても暗いしじめじめしている。
肝心の建築はというと、内部空間は120平米ほどの大きなワンルームと設備、納戸、トイレが収められ隅っこに寄せられたコアスペースとで構成されている。
最も大きな特徴は、天空に持ち上げられた大きな屋根である。寄棟の1/4を切り取り、頂部をめいっぱい引き上げた形状をしている。頂部の高さは実に9m。稜線がズレ、そこから光を入れる。敷地が暗いということを最大限考慮した結果、建物自体の背を高くすることでなるべく多くの時間、日光を取り入れようという意図である。

さてこの建築、僕が知ってる建築家のそれとはどうも毛並みが違う。
まず、プログラムが「集会所」である。
僕の知っている建築家は、小住宅か中規模の集合住宅(多くても10戸程度)か、一気に規模と名声を大きくして市役所や美術館、学校を設計している。学生の時に設計した用途もだいたい上記にあるものと同じだ。
磯崎新「都市からの撤退」や隈研吾「パドックからカラオケへ」という著名な建築家による日本の建築界を現す言説を敷衍するまでもなく、駆け出しの若手建築家は、住宅でスタートするのが、建築界では常識だろう。
ところが福井氏が設計したこの建物の用途は、
「集会所」
クライアントは
「自治会」
である。
そして、福井さんはどこの事務所にも務めず、弱冠27才にしてこの建物を竣工させた。20代、若手建築家の処女作が住宅ではなく公共である。プロポーザルコンペで勝っても頓挫が後を絶たない公共建築を実現させてしまった。
集会所という慣れない名詞が象徴するように、建物内には、パイプ椅子や生花や学校にあるような革スリッパや金網とタワシ素材で出来た泥落としなどの、「地域のおじいちゃんやおばあちゃんの顔がすぐに浮かんでくるような」小物や家具は、僕の知っている建築家の設計した建築にはないものばかりで、本当に不思議な感覚を僕に与えてきたので正直最初は少し戸惑った。


学生の時から、福井さんはどこかそういう泥臭さ、地域っぽさを醸し出していたことを思い出すまで、その違和感は消えずに僕の脳みその表層に留まっていたのだが、ひとたび福井さんのキャラクターを思い出したとたん、僕は福井さんにいろいろな質問を開始した。
「住民からの要求は?」
「予算は?」
「住民との話し合いはどのようにどれくらいあったの?」
聞き進めていくと、もう一つ、おかしなことが露呈してきて、僕の直感は先鋭化した。
どうやら、福井さんは、この建築が建つまで、30回近くも地域住民の代表と話し合いを重ね、暗い場所という地域の共通言語を示し、「日光を取り入れ明るくする形です」という形の説明によって世の建築家が提示しやすい特殊な形から生まれる不安感を素通りし(デンマークの建築家集団BIGのアイコニックな建築形状の民主性に匹敵する説明によって)、住民の心を掴み、自ら施工に参加して経費を浮かせて、特別な法規が適用される南側崖の測量と地質調査も自分で行って、敷地のごみ拾いに参加して、大量の倉庫の移動まで手伝ったのだそうだ。
基本的に建築家の仕事は基本設計と実施設計で、構造家や設備家と協働して設計した図面を大工さんや水道業者やクロス業者に渡して的確に指示を送る指揮者のような存在だと認識しているが、福井さんの取り組み方はそれとは少し雰囲気が違う。
そうこうしている内に、住民のモチベーションがどんどんどんどん上がっていたのだと言う。簡単な施工や物置の移動などは住民も積極的に参加し、落成式では地元の和太鼓チームや伝統踊りのグループを招待し、市長も参加するほど大きなものになった。
違和感の正体は、
<20代の建築家の処女作となった「パイプ椅子」のある「集会場」は、「自治会への説明会」や「施工」や「清掃」や「測量」などの仕事も積極的に引き受けた結果、実現したのである。強烈な「地域コミュニティ」の生成と共に。>
という、従来の建築家のイメージを覆す名詞群の塊だった。
この圧倒的な齟齬を、どう捉えれば良いか。
もちろん、この齟齬によって、あるいは経験の少なさによって、ディテールが詰め切れていなかったり、空間の抽象性が損なわれていたり、素材の使い方に無理があったり、建築的専門的見地からいくらでも批判することは可能だ。だが、それを咎めたり指摘したり、或いは、光が思ったより入っていい空間だね、とか、形が面白いとか、配置計画がなんとかかんとか、僕にはそういう言葉は生きたものとして感じられなかったので、言及しなかった。もちろん、そういう言葉を否定するつもりは毛頭ない、むしろそのような専門的見地から生まれる建築言語の重要性は、圧倒的な歴史によって担保されていると認識している。ただ僕にはそれらを言及することが出来なかった。
そういう建築言語が生まれてきた、僕の実感できる戦後の日本建築界は1960年代の磯崎新による「都市からの撤退」という至言から始まる。これは丹下の物理的失敗と情報的成功を同時に乗り越えるための応急処置であって(万博で磯崎は本当の意味で絶望したに違いない)、そこから抽象的世界へ閉じこもるしか道がなかった70年代、屈折したポストモダニズムの理論を社会に吸い出されて失敗した(という話をよく聞く)80年代、その失敗の反省に当てられた90年代、SANNAと小住宅が一世を風靡した00年代を経て、今も我々は、磯崎に処方された延命期間にギリギリ乗っかっていると言って良い。
彼の話を聞いていて、奇しくも、そのような建築の歴史の浮き沈みに対し、一貫したポーズで構え続け現在性の定点となっている僕達の校長だった山本理顕氏の言葉を思い出した。地域社会圏という400人の地域を再設計する課題で良く仰っていた言葉である。
「この地域社会圏には若い建築家が一人ついて、地域をオーガナイズしていく。建築家の本来の力、空間の力はここでこそ発揮される。」
この言葉が福井さんにそのまま当てはまる。この町内会は160世帯、350人程度の規模だと言う。福井さんは、数々の公共事業で行政に立ち向かった山本理顕氏の理想を実現させるための具体的な道筋を示したと言えるだろう。既に彼は地域住民の圧倒的な信頼を獲得し、行政の窓口も抑え、政治にもコミットし得る、山本氏の想像するような、コミュニティ・アーキテクトという職能の道を「勝手に」切り開いたとは言えないだろうか。
決して希望的観測ではなく、建築家の職能が広がっている、と僕は感じている。
今の日本の建築界を鑑みると、僕個人としては、従来の建築家像とは異なる、新しい流れをいくつか感じる。
・建築的思考によって地域のコミュニティを醸成する流れ
・ウェブからメディアにコミットし、積極的なセルフマスコミュニケーションによって建築家のプレゼンスを高める流れ
・第三世界へ接続し、世界規模の需要を満たす流れ
上記のような建築家が建築家という枠組みで語られるかどうかはさして問題ではない。建築家ではないと断言する人も当然いるし、僕のように職能が広がったという人もいるだろうし、上記以外の選択肢を挙げる人もいるだろう。
でも、変化が起こっていること自体が僕にとっては何より重要だ。
学生の時見た雑誌やコンペや課題や数々の建築家の言説の中には全く存在し得なかった、実感できる社会から、着実につながっていく。建築家の、都市への回帰があるとすれば、僕は、一つの選択肢として福井さんのような建築家像に、非常に共感を覚える。
変化の先にある、新しい建築家像を福井さんには見せて頂いた。その萌芽に立ち合えて光栄である。
尊大な希望をどうも有難う。

by tsujitakuma
| 2010-12-09 20:53
| architect