2011年 03月 20日
ローカルダイアローグ01「医学と建築の関係性について、あるいは西洋と東洋との間に横たわる相対化の希求」 |
ローカルダイアローグと題して、地方都市や分野を跨いだ同世代のネットワークを長期のメール対談形式で始めます。
第一回は高校の同級生で無二の親友でもあり、現在は愛媛大学で医療を学んでいる堀内滋人とのメール対談を掲載します。
建築と医療、西洋と東洋、浜松と松山、という複数の軸を、圧倒的な共有量でクロスオーバーさせた内容となっております。御覧ください。
(辻→堀内)2010年10月18日
堀内君は僕と同じ浜松出身で高校の同級生です。
現在は愛媛大学の医学部に所属しているということですが、愛媛大学の医学部を選んだ理由と、医学部における堀内君の教育過程進度とその具体的な内容を可能な範囲でまずはお聞かせください。
(堀内→辻)2010年10月18日
まず僕の、「医学部における教育課程進度」についてですが、僕は現時点で5回生で、臨床実習というのをやっているところです。具体的に、という注文に答えたことになるのかはわかりませんが、臨床実習というものの説明をします。その前に、それまで4年間の過程というのを説明すると、まず大学に入って一般教養から始まり、そしてだんだん解剖学などの基礎医学と呼ばれる分野を学んでから、内科や外科などといった臨床医学を学びます。そして一通りの学習が終わってテストに通ると、5年目は丸々1年間病院の中で各診療科を廻る臨床実習を行うのです。ここでやることは、担当患者さんを当てられてその方のお話を聞いたり診察などをさせてもらったり、少人数でのミニレクチャーであったり、手術見学・助手(もちろん殆ど何もしません・できません)であったりということです。そして、それをまとめたレポートを提出する。これが、今、僕がやっていることの概略です。
次に、愛媛大学の医学部を選んだ理由ですが、これは少し箇条書き的な回答になってしまいます。まずは、センター試験の得点と合格可能性は考えましたね。それから、その時の趣味趣向から(今となってはジョークですが)、文学都市ということ、実家からものすごく遠いこと、行ったことがないこと。あとは、確か僕が入試を受けた年度かその前年度に愛媛大学が大学病院における患者満足度全国1位だったこと…などなどがあったと記憶しています。実際は、恥ずかしながら、2番目の要素(文学…)が最も大きかったです。ですので、前期は金沢大学、後期は愛媛大学という出願のしかたをしました。そこに京都大学が入っていないのは、1番目の要素(合格可能性)からです。上記のような不順な動機ばかりですので、正直どこでも良かったというのが真の回答だと思います。
(辻→堀内)2010年10月19日
なるほど。「臨床」のニュアンスは、徐々に現場に出ていく、ということでしょうか。
そのような現場への着実な過程を5年間経て、どのようなことを学び、あるいはどのようなことに不満を感じましたか?
あとは、松山と浜松の違いについてもお聞かせください。僕は君を訪ねに5、6回松山にいきましたが、松山は浜松と比較して相当うまくいっている印象を持ちました。商業地区がJRの駅から遠いことが資本の市街地への流入を結果的にある程度防ぎ、小洒落たカフェが多かったり、アーケードが老若男女で賑わっていたりと、歴史的な差異ももちろんあるとは思いますが、感じました。
(堀内→辻) 2010年10月28日
「臨床」というのは、実際に患者さんと関わる、ということです。そこに、徐々に、という意味合いはないですよ。確かに、医学部に入り医師になるまでの過程は、徐々に臨床に出て行く過程と表現できると思いますが。
現時点で、「これを学びました」という明確なもの、実感はあまりないですね。学んでいる最中ですし、5年間医学部で学んだものが有機的に繋がって1つあるいは有限数の「これ(これら)」という総体にまとめることができないのです。確かに、1つ1つの学科の試験に合格し、実習も行なってきてはいますが、「学んだ」と自信を持って言える、身になったという実感が乏しいのが僕の現状です。それは、そのまま不満になると思います。その辺の理由や背景などの詳細については長くなると思うので他の質問で関係がありそうなら答える、という形でいいですか?(もちろん不満を言えと言われたら、学生特有の非現実的で身勝手な理想を掲げて身も蓋もない不満を主張することもできますが、ここはなるべく自省します)
確かに、中心街と松山駅は遠いですね。入学手続きの時に松山駅に降りて駅前の風景を見渡したときは、ある意味終わったなと思ったりしました笑。
僕は元々純粋に浜松の人間ではなくて厳密に言えば旧浜名郡の人間ですので、どちらに対しても外の人間という感覚があります。「浜松」も「松山」も字面は結構イケメンなんですよね。だから、純粋に浜松の人間としての比較にはならないとは思います。辻くんがいうように、僕も浜松よりも松山の市街地の方が文化的というかオシャレというか、そういうのは入学当初から感じてましたね。でもかと言って、都会的ではない、ざっくばらんさみたいまものもありますね。歴史や文化の違いはもちろんありますね。それから松山は観光都市で浜松は工業都市です。他にも色々あるとは思うのですが、僕の個人的な印象として1つ上げたいのは、松山の人たちは浜松の人たちと比べて、良くも悪くも松山という土地に対してある程度誇りを持っているような気がするということです。
(辻→堀内) 2010年12月20日
僕個人的には、医学、あるいは医学部というものは、西洋的な分割、定義、専門化が日本において高度に機能している分野であると捉えています。一方で君は東洋医学研究会にも所属していますね。ある意味で西洋哲学の極地に属している君が、東洋を学ぼうとしているモチベーションはどこから発生するのでしょうか?
また、僕はスウェーデンに3ヶ月間研修に行ってきたのですが、自分の街、あるいは自分の所属している枠組に対して誇りを持つ、ということは日本人よりも西洋人の方がはるかに意識的であるような気がします。
堀内君から見て、西洋的であることと、日本的であることの違いというのはどこにあるのでしょうか?
上記二つの質問は同じようなことを聞いているかもしれませんので、回答は一つでも構いません。
(堀内→辻) 2011年1月25日
東洋医学を学ぶモチベーションについては、まず「効くから」という部分を挙げなければならないですね。特に今となってはその部分が非常に強いです。「効く」というのは少し言い過ぎな部分があるかもしれません。「効くと思うから」「効くと言われているから」が最適ですかね。ただ、現場では医師が漢方を処方している機会によく遭遇します。そのような現状から東洋医学を学ぶ動機を得ています。
それから、東洋医学を学んでいて個人的に面白さを感じたのは、東洋思想的な部分が背景にあったところですね。西洋医学を学びまた現代で生活している身としては、古典を読んだり、思想的な部分が色濃く反映されている理論書などを読むことは、刺激的でしたね。誤解を恐れずに言えば、一時期は新しいパラダイムの可能性を求めて東洋医学を勉強していたようなところも少なからずありました。でも、そのような経験から東洋医学と西洋医学の違いを考えても、その違いは、日本と西洋の違いというよりは現代と昔の、技術・知識・思考・能力の違いと言った方がいい面が強いと思います。西洋医学に比べて東洋医学には、なるべく矛盾を孕まない形で全体性を説明するという特徴があると思いますが、これは東西の思想や文化の違いというよりも、古典を根拠にしているか現在進行形の研究を根拠にしているかの違いといった方がいいでしょう。そして、東洋医学に触れたことが何らかの形で僕の生活や思考に影響を与えているかどうか、それはわかりません。その影響かどうかはわかりませんが、西洋も東洋もない部分っていうのはあると考えています。僕が「西洋哲学の…」っていう君の評は身に余るところがありすぎるわけですが、純粋に興味を持つ対象あるいはその背景に西洋も東洋もない部分があるのかもしれませんね。
思想的な部分は置いといて、効果という面から東洋医学、漢方医学を学ぶといったスタンスは必要だと思います。東洋医学だからダメという思考停止は避けたいですね。ある意味でそういう思考停止に対する免疫を学生時代に養っておいたことは最大の収穫だったかもしれません。今のところ東洋医学の専門家になろうとは考えてないのですが、東洋医学に限らず色々な偏見に適応できますからね。
少し辻くんが期待しているところからずれた回答になったかもしれませんが、大丈夫ですか?
(辻→堀内) 2010年3月20日
少しずれたというか、先回りされたようです。「西洋医学に比べて東洋医学には、なるべく矛盾を孕まない形で全体性を説明するという特徴があると思いますが、これは東西の思想や文化の違いというよりも、古典を根拠にしているか現在進行形の研究を根拠にしているかの違いといった方がいいでしょう。」この辺りをもう少し深めていきたい。
建築の話に引きつけて意図を説明したいと思います。(専門的な話だから回答する前に質問があったら受け付けます。)
「建築」という概念も「医学」と同様にほぼ明治以降に西洋から輸入された概念です。それまでは建築家という職能自体なかったわけです。そこから必死に西洋の様式や技術を真似し、一部をモノにし、「思想」を抜きにしてなんとか追いついたわけですね。
だから、「西洋思想」は後から入ってきたわけです。最初に技術を習得して、後からあぁ、こういうことか、という風に。実感は後からやってきたと言ってよい。常に、西洋哲学の後追いだった建築界において、なぜか今、西洋から参照され始めているという動きが出てきています。
建築に置ける脱構築という動きが欧米で1980年代に起こりました。それ以前のヨーロッパの建築家たちは、人間が構築的に考えることの限界を建築という結果によって逆説的に見せつけられていたのです。だからその限界=物質としての形を直接的にずらしたり、割ったり、ぐにゃぐにゃさせたりして、構築の限界突破の直接的な表現を目指したようです。
現在の日本人建築家は形をずらしたり、割ったりしません。むしろ形は四角い建築が多いようです。
では何故、ヨーロッパの建築シーンから賞賛を受けているのかというと、(桂離宮などに代表される日本的な伝統様式、「間」という概念は当然だとして)建築を考えることそれ自体を脱構築しようとしているからです。つまり、建築を構想する過程において、いかに自分で考えないか、あるいは自分の意思を最終的に超えるかということを考えているからです。だからそれで出てきた形が四角くても(構築的でも)思想的には脱構築されているわけですね。
自然のルールを思考に導入することで、あるいは、思考を捨て肉体的な感覚を模型によってひたすら反復させることで、スケッチの偶発的な連続性を頼りにすることで、周りの都市に対して建築が負けることで、日本の建築家は自らの思考の限界突破を探っているわけです。(平たく言えば自分以外の何かに建築の存在理由を求めるということでしょうか。)
また、20世紀初期のモダニズム建築における機能主義(LDKとかベッドルームとか)は空間に名前をどんどんつけていったわけですが、それが露呈した限界を日本的な価値観は突破している、という評価もあるわけです。
西洋の医学でもすべての臓器や部位に対してひたすら命名していくわけですよね。命名、定義、機能を与えて切り分けていく。僕が西洋医学に対して思うのは、日々患者とのやりとりの中で、あるいは強烈なプレッシャーの中で、ひたすら(既に哲学的には限界を露呈されている)人間の構築自体と向き合い続けている、ということに対して、医者はどのようなスタンスを取っているのか、ということです。
そんなことを考えている余裕は基本的にはないという回答が予測出来ますが、そういう状況を未だ俯瞰して、思想として西洋的構築の末端にある医学と東洋医学を同時に学習している君が、日本的な(東洋的な)価値観や西洋の構築自体をどう思うか、今一度聞いてみたいと思います。あるいは、学術的な(構築的な)積み重ねの閉塞感があるのか、その場合、新たな医師像を開拓しよういう流れ(この前話した限界集落での医師のあり方の変化など)がどのような形で具体的に表出しているのか、この辺りまで踏み込んで応えて頂きたい。
また、今月号のAARにて浜松での活動について建築家の松島潤平さんとメール対談をしました、僕の思考がひとまずまとめられているので、こちらの感想も合わせてお答え頂ければと思います。
Art and Architecture Review
(堀内→辻) 2011年3月21日
個人的に、医学という学問に対して積極的な姿勢を維持できるようになった、アウトブレイクとなった事象があります。それは、「医療は医学の社会的適応」という言葉への批判でした。医療があって医学があるということです。
「医療は医学の社会的適応」と言ったのは、武見太郎という昭和の「偉大な」医師です。未だにこの言葉を掛け軸に飾っているような施設もあると聞きます。また、そういう態度を決め込んでいる医師もいます。
僕は、決してそれを是としません。その理由は簡単です。医療があって医学があるという態度は、実感、リアルさ、が伴い、したがって圧倒的だからです。学生の実習を通して医療を垣間見ること、また、医療があって医学があるという認識自体が、それまで医学を表面的に捉え座学で辟易としていた自分を一変させ、絶えず医学に対する潤滑油として、原動力として働いています。
琢磨の、「建築設計言語よりもまちづくりという文脈のほうが圧倒的に相互理解が可能である…」という言葉は、上記のような僕自身の文脈をもって非常に共感できます。
医学の場合、タンパク質や遺伝子解析がかなり密接に医療とつながっていきますので、社会的機能というのも認識しやすい。だが一方で、初学者としてそのような最先端医学に触れても、良く言ってそれはただのゲームのような感覚しか持てませんでした。今は、医療と密接にリンクしたものとして、積極的に吸収しようとしますが、当時は医療とは断絶された無味乾燥の苦痛でした。もし僕が将来基礎医学の研究者になっていくとしても、そのような断絶を放置したままではきっといい仕事は出来ないと思います。断絶の放置はそのまま非効率性となっていくというのが、僕の実感です。
この断絶の放置に関しては、ある世代の方々は致し方なくdutyとして受け入れてきたのではないかという、印象を持っています。まず、医療史の話をします。西洋医学が日本に伝わったの明治です。権威主義的なドイツ医学を、軍医が伝えるという権威的な方法で、日本に伝来しました。それが今も色濃く残っているという医師がときどきいます。そして現在では、ドイツ人でも日本の医学を見て、懐かしいと言うと。一方で、医療があって医学があるという元来の態度であったアメリカ医学が、現在世界の医学界をリードしているのはある意味当然であると。(ただし、そういう主張される医師は確かにマイノリティです。というよりマジョリティは、主張をあまり発していません。批判はします。)
ですので、琢磨の活動というのは、ある意味当然の帰着であるように思います。むしろ、建築設計、建築的思考とまちづくりに断絶があった今まででは、むしろ空虚な学問だったと言えるのではないでしょうか?医療も医学も最終的な対象は人間です。まちづくりも建築も、最終的な対象は同じなんじゃないですか?現代のような情報化社会で、断絶が放置されているのはそれだけで脆弱なシステムと言わざるを得ません。だから、日本の医学界は脆弱なのだと、僕は思っています。建築も同じなんじゃないかと思うのですが、そのなかでの君の活動は救いだと思います。「まちづくりとも建築設計とも少しずれた」アプローチになると文中で君は表現していますが、実は最終的に同じものであるにもかかわらず互いに別々に動いていた今までが異様なアプローチだったと言えませんか?
アートという側面は医療・医学にも存在します。ただし、医療に重点をおいたスタンスである方がその側面を強化できることは言わずもがなです。東洋医学は元来アートという側面が強いとおもいますが、それに関しては別件です。ですので、建築的思考とまちづくりの間に、アートという隔たりがあるというのは、僕としてはあまり納得できないところです。むしろ、まちづくりにアートの側面を強化する機構があるのでは?と思います。
僕の専門である医学は、人間を扱い、医療を行うことによって還元し、またその反応から、体系化された学問としての一歩を踏み出していきます。今回の松嶋さんとの対談では、まちづくりと建築が対比として扱われていました。まちづくりを医療、建築を医学として捉えると、事態は非常に理解しやすいものでした。したがって、浜松を患者として…。キーパーソンというのは、典型的症状を来した患者でしょうか…。
そして、建築界としてのほっとなトピックが縮減である…
「縮減」という専門用語を、医学の何に置き換えられるか考えましたが、はっきりとした物は浮かびませんでした。1つ近いかなと思うのは、「メタボ」です。メタボリックシンドロームは、ある意味では人間の活動性が低下し、エネルギー需要を越えた供給が長期間継続した場合に発生してきます。したがって、車や電車などといった現代の利便性向上によって、エネルギー需要が「縮減」した結果と言えるのかもしれません。よって、活動性の維持が重要であると。
ただし、医学には活動性の過剰が問題となるケースがあります。代表的なものには躁病もありますが、これはちょっと難しいので、もう一つ代表的なものに甲状腺機能亢進症というのがあります。全身の代謝が活発になるため、エネルギー需要が増加します。発汗します。心臓の活動性が高まり絶えず短距離走を走った後のような状態になります。
何が言いたいかというと、コミュニケーションの過剰は良いのか?ということです。建築設計的でもまちづくりという視点でもいいですが、コミュニケーションの過剰というのは想定されないのですか?
(辻→堀内) 2011年3月21日
医学も建築学も基本的には欧米からの輸入品という点で非常に共通している部分はあると思います。私たちの価値観のベースには欧米がある。というか日本古来の東洋的というか受動的な価値観が西洋概念に上書きされているという印象です。上書きされやすいのです。
最後の質問に関してですが、コミュニケーションの過剰という状況はあり得ます。過剰はシステムにとっても良い影響を及ぼすとは限らないでしょう。
AARの対談でもまちづくり=短距離走という設定でコミュニケーションの活性化を図るスターターの役割をまちづくりが担っていることが俎上に載せられましたが、まさにその動きに秩序を与えるのが建築設計だという認識です。過剰を抑え、生命に秩序を与える。それが設計ということです。
ですから、短距離も長距離も両方必要なのです。
この対談で、医療とまちづくりがメタレベルでここまで翻訳可能であることに一つ可能性を見ることが出来ました。今後、地域医療やまちづくりで、つまり都市を媒介に建築と医療が結びつく事例が出てくるでしょう。その時に僕らが参加できる土壌を今から意識して作っていければと思います。
□プロフィール
堀内滋人
ほりうち・しげと
1985年生まれ
静岡県浜松市西区(旧浜名郡)舞阪町出身
愛媛大学医学部医学科在籍中
第一回は高校の同級生で無二の親友でもあり、現在は愛媛大学で医療を学んでいる堀内滋人とのメール対談を掲載します。
建築と医療、西洋と東洋、浜松と松山、という複数の軸を、圧倒的な共有量でクロスオーバーさせた内容となっております。御覧ください。
(辻→堀内)2010年10月18日
堀内君は僕と同じ浜松出身で高校の同級生です。
現在は愛媛大学の医学部に所属しているということですが、愛媛大学の医学部を選んだ理由と、医学部における堀内君の教育過程進度とその具体的な内容を可能な範囲でまずはお聞かせください。
(堀内→辻)2010年10月18日
まず僕の、「医学部における教育課程進度」についてですが、僕は現時点で5回生で、臨床実習というのをやっているところです。具体的に、という注文に答えたことになるのかはわかりませんが、臨床実習というものの説明をします。その前に、それまで4年間の過程というのを説明すると、まず大学に入って一般教養から始まり、そしてだんだん解剖学などの基礎医学と呼ばれる分野を学んでから、内科や外科などといった臨床医学を学びます。そして一通りの学習が終わってテストに通ると、5年目は丸々1年間病院の中で各診療科を廻る臨床実習を行うのです。ここでやることは、担当患者さんを当てられてその方のお話を聞いたり診察などをさせてもらったり、少人数でのミニレクチャーであったり、手術見学・助手(もちろん殆ど何もしません・できません)であったりということです。そして、それをまとめたレポートを提出する。これが、今、僕がやっていることの概略です。
次に、愛媛大学の医学部を選んだ理由ですが、これは少し箇条書き的な回答になってしまいます。まずは、センター試験の得点と合格可能性は考えましたね。それから、その時の趣味趣向から(今となってはジョークですが)、文学都市ということ、実家からものすごく遠いこと、行ったことがないこと。あとは、確か僕が入試を受けた年度かその前年度に愛媛大学が大学病院における患者満足度全国1位だったこと…などなどがあったと記憶しています。実際は、恥ずかしながら、2番目の要素(文学…)が最も大きかったです。ですので、前期は金沢大学、後期は愛媛大学という出願のしかたをしました。そこに京都大学が入っていないのは、1番目の要素(合格可能性)からです。上記のような不順な動機ばかりですので、正直どこでも良かったというのが真の回答だと思います。
(辻→堀内)2010年10月19日
なるほど。「臨床」のニュアンスは、徐々に現場に出ていく、ということでしょうか。
そのような現場への着実な過程を5年間経て、どのようなことを学び、あるいはどのようなことに不満を感じましたか?
あとは、松山と浜松の違いについてもお聞かせください。僕は君を訪ねに5、6回松山にいきましたが、松山は浜松と比較して相当うまくいっている印象を持ちました。商業地区がJRの駅から遠いことが資本の市街地への流入を結果的にある程度防ぎ、小洒落たカフェが多かったり、アーケードが老若男女で賑わっていたりと、歴史的な差異ももちろんあるとは思いますが、感じました。
(堀内→辻) 2010年10月28日
「臨床」というのは、実際に患者さんと関わる、ということです。そこに、徐々に、という意味合いはないですよ。確かに、医学部に入り医師になるまでの過程は、徐々に臨床に出て行く過程と表現できると思いますが。
現時点で、「これを学びました」という明確なもの、実感はあまりないですね。学んでいる最中ですし、5年間医学部で学んだものが有機的に繋がって1つあるいは有限数の「これ(これら)」という総体にまとめることができないのです。確かに、1つ1つの学科の試験に合格し、実習も行なってきてはいますが、「学んだ」と自信を持って言える、身になったという実感が乏しいのが僕の現状です。それは、そのまま不満になると思います。その辺の理由や背景などの詳細については長くなると思うので他の質問で関係がありそうなら答える、という形でいいですか?(もちろん不満を言えと言われたら、学生特有の非現実的で身勝手な理想を掲げて身も蓋もない不満を主張することもできますが、ここはなるべく自省します)
確かに、中心街と松山駅は遠いですね。入学手続きの時に松山駅に降りて駅前の風景を見渡したときは、ある意味終わったなと思ったりしました笑。
僕は元々純粋に浜松の人間ではなくて厳密に言えば旧浜名郡の人間ですので、どちらに対しても外の人間という感覚があります。「浜松」も「松山」も字面は結構イケメンなんですよね。だから、純粋に浜松の人間としての比較にはならないとは思います。辻くんがいうように、僕も浜松よりも松山の市街地の方が文化的というかオシャレというか、そういうのは入学当初から感じてましたね。でもかと言って、都会的ではない、ざっくばらんさみたいまものもありますね。歴史や文化の違いはもちろんありますね。それから松山は観光都市で浜松は工業都市です。他にも色々あるとは思うのですが、僕の個人的な印象として1つ上げたいのは、松山の人たちは浜松の人たちと比べて、良くも悪くも松山という土地に対してある程度誇りを持っているような気がするということです。
(辻→堀内) 2010年12月20日
僕個人的には、医学、あるいは医学部というものは、西洋的な分割、定義、専門化が日本において高度に機能している分野であると捉えています。一方で君は東洋医学研究会にも所属していますね。ある意味で西洋哲学の極地に属している君が、東洋を学ぼうとしているモチベーションはどこから発生するのでしょうか?
また、僕はスウェーデンに3ヶ月間研修に行ってきたのですが、自分の街、あるいは自分の所属している枠組に対して誇りを持つ、ということは日本人よりも西洋人の方がはるかに意識的であるような気がします。
堀内君から見て、西洋的であることと、日本的であることの違いというのはどこにあるのでしょうか?
上記二つの質問は同じようなことを聞いているかもしれませんので、回答は一つでも構いません。
(堀内→辻) 2011年1月25日
東洋医学を学ぶモチベーションについては、まず「効くから」という部分を挙げなければならないですね。特に今となってはその部分が非常に強いです。「効く」というのは少し言い過ぎな部分があるかもしれません。「効くと思うから」「効くと言われているから」が最適ですかね。ただ、現場では医師が漢方を処方している機会によく遭遇します。そのような現状から東洋医学を学ぶ動機を得ています。
それから、東洋医学を学んでいて個人的に面白さを感じたのは、東洋思想的な部分が背景にあったところですね。西洋医学を学びまた現代で生活している身としては、古典を読んだり、思想的な部分が色濃く反映されている理論書などを読むことは、刺激的でしたね。誤解を恐れずに言えば、一時期は新しいパラダイムの可能性を求めて東洋医学を勉強していたようなところも少なからずありました。でも、そのような経験から東洋医学と西洋医学の違いを考えても、その違いは、日本と西洋の違いというよりは現代と昔の、技術・知識・思考・能力の違いと言った方がいい面が強いと思います。西洋医学に比べて東洋医学には、なるべく矛盾を孕まない形で全体性を説明するという特徴があると思いますが、これは東西の思想や文化の違いというよりも、古典を根拠にしているか現在進行形の研究を根拠にしているかの違いといった方がいいでしょう。そして、東洋医学に触れたことが何らかの形で僕の生活や思考に影響を与えているかどうか、それはわかりません。その影響かどうかはわかりませんが、西洋も東洋もない部分っていうのはあると考えています。僕が「西洋哲学の…」っていう君の評は身に余るところがありすぎるわけですが、純粋に興味を持つ対象あるいはその背景に西洋も東洋もない部分があるのかもしれませんね。
思想的な部分は置いといて、効果という面から東洋医学、漢方医学を学ぶといったスタンスは必要だと思います。東洋医学だからダメという思考停止は避けたいですね。ある意味でそういう思考停止に対する免疫を学生時代に養っておいたことは最大の収穫だったかもしれません。今のところ東洋医学の専門家になろうとは考えてないのですが、東洋医学に限らず色々な偏見に適応できますからね。
少し辻くんが期待しているところからずれた回答になったかもしれませんが、大丈夫ですか?
(辻→堀内) 2010年3月20日
少しずれたというか、先回りされたようです。「西洋医学に比べて東洋医学には、なるべく矛盾を孕まない形で全体性を説明するという特徴があると思いますが、これは東西の思想や文化の違いというよりも、古典を根拠にしているか現在進行形の研究を根拠にしているかの違いといった方がいいでしょう。」この辺りをもう少し深めていきたい。
建築の話に引きつけて意図を説明したいと思います。(専門的な話だから回答する前に質問があったら受け付けます。)
「建築」という概念も「医学」と同様にほぼ明治以降に西洋から輸入された概念です。それまでは建築家という職能自体なかったわけです。そこから必死に西洋の様式や技術を真似し、一部をモノにし、「思想」を抜きにしてなんとか追いついたわけですね。
だから、「西洋思想」は後から入ってきたわけです。最初に技術を習得して、後からあぁ、こういうことか、という風に。実感は後からやってきたと言ってよい。常に、西洋哲学の後追いだった建築界において、なぜか今、西洋から参照され始めているという動きが出てきています。
建築に置ける脱構築という動きが欧米で1980年代に起こりました。それ以前のヨーロッパの建築家たちは、人間が構築的に考えることの限界を建築という結果によって逆説的に見せつけられていたのです。だからその限界=物質としての形を直接的にずらしたり、割ったり、ぐにゃぐにゃさせたりして、構築の限界突破の直接的な表現を目指したようです。
現在の日本人建築家は形をずらしたり、割ったりしません。むしろ形は四角い建築が多いようです。
では何故、ヨーロッパの建築シーンから賞賛を受けているのかというと、(桂離宮などに代表される日本的な伝統様式、「間」という概念は当然だとして)建築を考えることそれ自体を脱構築しようとしているからです。つまり、建築を構想する過程において、いかに自分で考えないか、あるいは自分の意思を最終的に超えるかということを考えているからです。だからそれで出てきた形が四角くても(構築的でも)思想的には脱構築されているわけですね。
自然のルールを思考に導入することで、あるいは、思考を捨て肉体的な感覚を模型によってひたすら反復させることで、スケッチの偶発的な連続性を頼りにすることで、周りの都市に対して建築が負けることで、日本の建築家は自らの思考の限界突破を探っているわけです。(平たく言えば自分以外の何かに建築の存在理由を求めるということでしょうか。)
また、20世紀初期のモダニズム建築における機能主義(LDKとかベッドルームとか)は空間に名前をどんどんつけていったわけですが、それが露呈した限界を日本的な価値観は突破している、という評価もあるわけです。
西洋の医学でもすべての臓器や部位に対してひたすら命名していくわけですよね。命名、定義、機能を与えて切り分けていく。僕が西洋医学に対して思うのは、日々患者とのやりとりの中で、あるいは強烈なプレッシャーの中で、ひたすら(既に哲学的には限界を露呈されている)人間の構築自体と向き合い続けている、ということに対して、医者はどのようなスタンスを取っているのか、ということです。
そんなことを考えている余裕は基本的にはないという回答が予測出来ますが、そういう状況を未だ俯瞰して、思想として西洋的構築の末端にある医学と東洋医学を同時に学習している君が、日本的な(東洋的な)価値観や西洋の構築自体をどう思うか、今一度聞いてみたいと思います。あるいは、学術的な(構築的な)積み重ねの閉塞感があるのか、その場合、新たな医師像を開拓しよういう流れ(この前話した限界集落での医師のあり方の変化など)がどのような形で具体的に表出しているのか、この辺りまで踏み込んで応えて頂きたい。
また、今月号のAARにて浜松での活動について建築家の松島潤平さんとメール対談をしました、僕の思考がひとまずまとめられているので、こちらの感想も合わせてお答え頂ければと思います。
Art and Architecture Review
(堀内→辻) 2011年3月21日
個人的に、医学という学問に対して積極的な姿勢を維持できるようになった、アウトブレイクとなった事象があります。それは、「医療は医学の社会的適応」という言葉への批判でした。医療があって医学があるということです。
「医療は医学の社会的適応」と言ったのは、武見太郎という昭和の「偉大な」医師です。未だにこの言葉を掛け軸に飾っているような施設もあると聞きます。また、そういう態度を決め込んでいる医師もいます。
僕は、決してそれを是としません。その理由は簡単です。医療があって医学があるという態度は、実感、リアルさ、が伴い、したがって圧倒的だからです。学生の実習を通して医療を垣間見ること、また、医療があって医学があるという認識自体が、それまで医学を表面的に捉え座学で辟易としていた自分を一変させ、絶えず医学に対する潤滑油として、原動力として働いています。
琢磨の、「建築設計言語よりもまちづくりという文脈のほうが圧倒的に相互理解が可能である…」という言葉は、上記のような僕自身の文脈をもって非常に共感できます。
医学の場合、タンパク質や遺伝子解析がかなり密接に医療とつながっていきますので、社会的機能というのも認識しやすい。だが一方で、初学者としてそのような最先端医学に触れても、良く言ってそれはただのゲームのような感覚しか持てませんでした。今は、医療と密接にリンクしたものとして、積極的に吸収しようとしますが、当時は医療とは断絶された無味乾燥の苦痛でした。もし僕が将来基礎医学の研究者になっていくとしても、そのような断絶を放置したままではきっといい仕事は出来ないと思います。断絶の放置はそのまま非効率性となっていくというのが、僕の実感です。
この断絶の放置に関しては、ある世代の方々は致し方なくdutyとして受け入れてきたのではないかという、印象を持っています。まず、医療史の話をします。西洋医学が日本に伝わったの明治です。権威主義的なドイツ医学を、軍医が伝えるという権威的な方法で、日本に伝来しました。それが今も色濃く残っているという医師がときどきいます。そして現在では、ドイツ人でも日本の医学を見て、懐かしいと言うと。一方で、医療があって医学があるという元来の態度であったアメリカ医学が、現在世界の医学界をリードしているのはある意味当然であると。(ただし、そういう主張される医師は確かにマイノリティです。というよりマジョリティは、主張をあまり発していません。批判はします。)
ですので、琢磨の活動というのは、ある意味当然の帰着であるように思います。むしろ、建築設計、建築的思考とまちづくりに断絶があった今まででは、むしろ空虚な学問だったと言えるのではないでしょうか?医療も医学も最終的な対象は人間です。まちづくりも建築も、最終的な対象は同じなんじゃないですか?現代のような情報化社会で、断絶が放置されているのはそれだけで脆弱なシステムと言わざるを得ません。だから、日本の医学界は脆弱なのだと、僕は思っています。建築も同じなんじゃないかと思うのですが、そのなかでの君の活動は救いだと思います。「まちづくりとも建築設計とも少しずれた」アプローチになると文中で君は表現していますが、実は最終的に同じものであるにもかかわらず互いに別々に動いていた今までが異様なアプローチだったと言えませんか?
アートという側面は医療・医学にも存在します。ただし、医療に重点をおいたスタンスである方がその側面を強化できることは言わずもがなです。東洋医学は元来アートという側面が強いとおもいますが、それに関しては別件です。ですので、建築的思考とまちづくりの間に、アートという隔たりがあるというのは、僕としてはあまり納得できないところです。むしろ、まちづくりにアートの側面を強化する機構があるのでは?と思います。
僕の専門である医学は、人間を扱い、医療を行うことによって還元し、またその反応から、体系化された学問としての一歩を踏み出していきます。今回の松嶋さんとの対談では、まちづくりと建築が対比として扱われていました。まちづくりを医療、建築を医学として捉えると、事態は非常に理解しやすいものでした。したがって、浜松を患者として…。キーパーソンというのは、典型的症状を来した患者でしょうか…。
そして、建築界としてのほっとなトピックが縮減である…
「縮減」という専門用語を、医学の何に置き換えられるか考えましたが、はっきりとした物は浮かびませんでした。1つ近いかなと思うのは、「メタボ」です。メタボリックシンドロームは、ある意味では人間の活動性が低下し、エネルギー需要を越えた供給が長期間継続した場合に発生してきます。したがって、車や電車などといった現代の利便性向上によって、エネルギー需要が「縮減」した結果と言えるのかもしれません。よって、活動性の維持が重要であると。
ただし、医学には活動性の過剰が問題となるケースがあります。代表的なものには躁病もありますが、これはちょっと難しいので、もう一つ代表的なものに甲状腺機能亢進症というのがあります。全身の代謝が活発になるため、エネルギー需要が増加します。発汗します。心臓の活動性が高まり絶えず短距離走を走った後のような状態になります。
何が言いたいかというと、コミュニケーションの過剰は良いのか?ということです。建築設計的でもまちづくりという視点でもいいですが、コミュニケーションの過剰というのは想定されないのですか?
(辻→堀内) 2011年3月21日
医学も建築学も基本的には欧米からの輸入品という点で非常に共通している部分はあると思います。私たちの価値観のベースには欧米がある。というか日本古来の東洋的というか受動的な価値観が西洋概念に上書きされているという印象です。上書きされやすいのです。
最後の質問に関してですが、コミュニケーションの過剰という状況はあり得ます。過剰はシステムにとっても良い影響を及ぼすとは限らないでしょう。
AARの対談でもまちづくり=短距離走という設定でコミュニケーションの活性化を図るスターターの役割をまちづくりが担っていることが俎上に載せられましたが、まさにその動きに秩序を与えるのが建築設計だという認識です。過剰を抑え、生命に秩序を与える。それが設計ということです。
ですから、短距離も長距離も両方必要なのです。
この対談で、医療とまちづくりがメタレベルでここまで翻訳可能であることに一つ可能性を見ることが出来ました。今後、地域医療やまちづくりで、つまり都市を媒介に建築と医療が結びつく事例が出てくるでしょう。その時に僕らが参加できる土壌を今から意識して作っていければと思います。
□プロフィール
堀内滋人
ほりうち・しげと
1985年生まれ
静岡県浜松市西区(旧浜名郡)舞阪町出身
愛媛大学医学部医学科在籍中
by tsujitakuma
| 2011-03-20 18:13
| essay