2011年 04月 06日
no.00試論-仏の空間について- |
「実務経験がないので、施工に対しての想像力は追いつきませんでしたが、精神的な開放性が滲み出ていて、救われるような、仏それ自体のような空間だったと思います。素直に感動させられました。竣工も心待ちにしております。」
dot architectsの大東翼さんにそうメールをしたのは、まだ竣工する前の現場を見せていただいた昨年12月のことだった。
1年4ヶ月?という一般戸建て住宅としては異例の長さの施工期間を経て、ついにno.00が(ほぼ)竣工した。
そこに生まれた空間は明らかに異質である。差異をはらんでいる。でも、仏それ自体のような空間であるという印象は間違っていなかった、というかより一層感じられた。
僕が仏と形容したのは、仏がすべての差異を認めるように、この空間がすべての差異を認めているように感じられたからである。僕も、ディテールも、削ったコンクリートも、飛び出た仕口も、大工さんの即興仕上げも、窓から見える住宅地も、内覧会に集まって人たちの靴も、大工さんも、スタッフも、2400mmの天高も、ステンレスの手すりも、神社も、境内の倉庫も、雨粒の跡も、隣の畑のボロボロの杭も、すべてがそこに在っていいよ、と空間が伝えている。それはこの空間自体が、様々な差異を差異としてそのまま表現していたことによる。コンテクストへの反応の仕方が一つ一つの要素(大工さんの癖や前面の神社、住宅の機能、施工汎用性など)同士の関係にまで微分すると大変に素直であるが、その一つ一つの要素は実は(当然)他の要素と並列化していて関係を持っている。その複層性と複雑性は私たちの理解をどうやら超えているようだ。まるで都市や自然や宇宙のように。
微細な差異を認めながら宇宙という俯瞰を与える、それが仏である。
確かに素直さだけに注目しても肩透かしを食らう。素直に取り組んでいる偶発的なディテールでセルフビルド風にしましたという指摘だけでは取りこぼしが多すぎるようだ。いや、どの切り口で切ってもどこかを取りこぼしてしまうことが超並列の最大の特徴かもしれない。竣工前と竣工後、大工と施主、ディテールと構成、外在性と内在性、1Fと2,3Fといった二項対立では全く捉えられないが、取り付く島はそこだろう。二項対立の調停というか、グラデーション。あるいは思考それ自体が二項対立を避けている気がしてならない。このような非構造的な思考で建築という構築物を構成するには、それ相応の思考方法が必要である。非構造的なままなら人間を囲う物質性とそれにかかる重力を引き受ける建築物は存在し得ない。思考をジャンプさせたのは、住宅らしい住宅とすることだと筆者は想像する。
コアと造作、RCと木造、1Fと上階に構成「分かりやすく二項対立で」が分かれているように、思考のコアはあくまで普通の住宅なのである。だから出来上がった空間はとても「住みやすそう」なのである。特に上階は(機能配列と、驚くべきことに空間も)住宅そのものだ。その当たり前を共有することで自由なコンテクストへの反応が可能となりあれだけの差異を孕むに至ったのだ。
兎に角、竣工とか模型とか、ある一点に定めた明確なゴール、目的がないまま行われ、現に立ち現れたもんだから、私たちの理解を遥かに超えた情報量があの場に現象していた。
僕は「私たちの理解を超えた情報量を建築というメディアにどう詰め込むか」というテーゼは現代建築を語る上で、特に、日本の現代建築を語る上で全く無視できないものだと考えている。
それはレイヤーは違えど、石上純也さんが柱の配置に詰め込む情報量の質と似ている。石上さんは柱の並列が与える機能、空間、構造への影響だけを扱い、dotは機能配列を超えた余条件を積極的に方法論に取り込んでいる。明確な目的がないまま、要素を並列的に扱い続けることが共通している。その矛先は正しく違えているとはいえ現代的と感じる。
でもこの建築は石上さんや西沢立衛さんのそれとは明らかに軸が違っている。その違いは何か。思考の流れが現象する「私たちの理解を超えた情報量を建築というメディアにどう詰め込むか」は、基本的には全肯定主義であるが、すべてを無批判に受け入れる何でもいい主義ではない。ここは双方共通している。決定的な差異は、全てのズレを創造的に誤読するレンジがno.00では広がっている、ということであろう。仏たりうる世界が拡がっているということである。どういうことか、首都大助教の門脇耕三さんも指摘しているが、誤読(創造的肯定)のレンジが模型の中だけなのか、大工や現場や所員や素材や地域性に拡張しているのかという違いであろう。
大雑把に言えば、私たちが所謂建築設計のコンテクストとして捉えるのは敷地条件とクライアントである。それがdotにおいては大工さんとの人間関係や大工さんの施工精度、技術、素材、自らの施工技術、自らの人間関係、施工汎用性、予算、近隣住民、さらに微分した敷地条件という具合で誤読可能なコンテクストのレンジが広がっている。
誤読の先が建築だけであれば建築だけに向かい、建築の歴史の上積みに正しく参加し得る建築が出来上がろう。例えばこのno.00を見た二日後に見た豊島美術館は明らかにその建築自体の追求によって世界を開放している。それは建築家による人類が手にする尊厳の表現への、空間提供としての参加である。豊島美術館を設計した西沢立衛さんは明らかに社会的に、人類的に価値を残している。社会を超えて人類の進化に寄与したと言って過言ないだろう。
僕らはこのレンジが拡張された誤読の先に何があるのかを考えなければいけない。
藤村龍至さんは、no.00が醸す建築自体の「頭が高い感じ」が与えるローカルコミュニティ生成への影響を指摘し、大工さんを含めた超並列設計と1Fの公共的な機能とがどのようにとりまとまるのかを説明できれば強度を持った設計論とその作品に昇華可能である、というようなことを仰っていた。確かにコミュニティの生成は包括的な視点であり、有価値である。住宅に入り込む公共性は、機能だけではなくて、大工さんや素材、住宅の形式と広いレンジで捉えることができるし、それは超並列という方法論に適している、そういうことを藤村さんは言いたかったのではないかと筆者は感じた。
ともあれ超並列設計の何が価値なのか。あるいは、二項対立を避けている思考が何故良いのか。
何故良いのかを判断するには、それをどう伝えるか、どのメディアで伝えるかを同時に考えなくてはならない。
空間の強度を示す価値基準に僕らは新しいメディアと基準を必要としているのかもしれない。no.00を観て最初に気になったのはこのno.00の良さを最大限引き出すメディアは何かということだった。写真なのか、動画なのか、人間なのか、twitterなのか、イベントなのか。パラディオが紙に、モダニズムが写真に、BIGが動画に、藤村龍至氏がtwitterに適合したように、dot architectsは自らのメディアを見つけなくてはいけない。それは、僕らが感じた言語を超えた感動をより多くの人間に伝える、価値を価値たらしめる建築家の社会義務である。
地域に根ざしたり、中心市街地活性化の分脈にのせたり、スラムへ行って人道支援活動をしたり、資本主義の終に自らの正統性を担保したり、施工やリサーチやイベントやワークショップや、建築の周りに他者を発見し創造的に誤読する、そういうことが現在的であるとして果たして、その価値を正統に伝えるメディアは現時点で存在し得るのか。
僕は、個人的には関西の建築家ネットワークというものは最強メディアだなと思っている。この日もno.00を語る会と題して総勢20名弱の建築家が車座になって議論を交わした。緩やかにつながるソーシャル・ネットワークそれ自体がメディアとして機能するような時代になっていて、そのメディアとは人間のことなのである。
僕は、やっぱりそういう人間関係が空間に立ち現れたり、仏の空間だと言って作品の良さを誰かに説明したくなったり、近所の人と大工さんの会話が生まれたり、一つの建築の内覧会二次会で緊張感ビンビンの議論が発生したり、人間が在ることの開放性を建築によって創造する、ということに価値を感じる。
一方で豊島美術館のクラシスズムから脈々と続く空間強度が現す現在性には圧倒的な説得力があった。だからこそ土着的な、近視的な人間関係の生成だけに留まっていてはいけないのだ。その素直な微視関係が引き起こす複雑性を丸ごと俯瞰してメディア化する、という作業が誤読のレンジが広がった建築の価値を最大限引き出すのである。
微細な差異(土着的な、近視的な人間関係)を認めながら宇宙という俯瞰(メディア化)を与える、それが仏である。
批評が追いつかない距離でdot architectsには邁進して頂きたい。それは新しいメディアの発見への筋道であり、新しい建築強度の創造を意味するのだから。
僕も必至に追いかけます。
dot architectsの大東翼さんにそうメールをしたのは、まだ竣工する前の現場を見せていただいた昨年12月のことだった。
1年4ヶ月?という一般戸建て住宅としては異例の長さの施工期間を経て、ついにno.00が(ほぼ)竣工した。
そこに生まれた空間は明らかに異質である。差異をはらんでいる。でも、仏それ自体のような空間であるという印象は間違っていなかった、というかより一層感じられた。
僕が仏と形容したのは、仏がすべての差異を認めるように、この空間がすべての差異を認めているように感じられたからである。僕も、ディテールも、削ったコンクリートも、飛び出た仕口も、大工さんの即興仕上げも、窓から見える住宅地も、内覧会に集まって人たちの靴も、大工さんも、スタッフも、2400mmの天高も、ステンレスの手すりも、神社も、境内の倉庫も、雨粒の跡も、隣の畑のボロボロの杭も、すべてがそこに在っていいよ、と空間が伝えている。それはこの空間自体が、様々な差異を差異としてそのまま表現していたことによる。コンテクストへの反応の仕方が一つ一つの要素(大工さんの癖や前面の神社、住宅の機能、施工汎用性など)同士の関係にまで微分すると大変に素直であるが、その一つ一つの要素は実は(当然)他の要素と並列化していて関係を持っている。その複層性と複雑性は私たちの理解をどうやら超えているようだ。まるで都市や自然や宇宙のように。
微細な差異を認めながら宇宙という俯瞰を与える、それが仏である。
確かに素直さだけに注目しても肩透かしを食らう。素直に取り組んでいる偶発的なディテールでセルフビルド風にしましたという指摘だけでは取りこぼしが多すぎるようだ。いや、どの切り口で切ってもどこかを取りこぼしてしまうことが超並列の最大の特徴かもしれない。竣工前と竣工後、大工と施主、ディテールと構成、外在性と内在性、1Fと2,3Fといった二項対立では全く捉えられないが、取り付く島はそこだろう。二項対立の調停というか、グラデーション。あるいは思考それ自体が二項対立を避けている気がしてならない。このような非構造的な思考で建築という構築物を構成するには、それ相応の思考方法が必要である。非構造的なままなら人間を囲う物質性とそれにかかる重力を引き受ける建築物は存在し得ない。思考をジャンプさせたのは、住宅らしい住宅とすることだと筆者は想像する。
コアと造作、RCと木造、1Fと上階に構成「分かりやすく二項対立で」が分かれているように、思考のコアはあくまで普通の住宅なのである。だから出来上がった空間はとても「住みやすそう」なのである。特に上階は(機能配列と、驚くべきことに空間も)住宅そのものだ。その当たり前を共有することで自由なコンテクストへの反応が可能となりあれだけの差異を孕むに至ったのだ。
兎に角、竣工とか模型とか、ある一点に定めた明確なゴール、目的がないまま行われ、現に立ち現れたもんだから、私たちの理解を遥かに超えた情報量があの場に現象していた。
僕は「私たちの理解を超えた情報量を建築というメディアにどう詰め込むか」というテーゼは現代建築を語る上で、特に、日本の現代建築を語る上で全く無視できないものだと考えている。
それはレイヤーは違えど、石上純也さんが柱の配置に詰め込む情報量の質と似ている。石上さんは柱の並列が与える機能、空間、構造への影響だけを扱い、dotは機能配列を超えた余条件を積極的に方法論に取り込んでいる。明確な目的がないまま、要素を並列的に扱い続けることが共通している。その矛先は正しく違えているとはいえ現代的と感じる。
でもこの建築は石上さんや西沢立衛さんのそれとは明らかに軸が違っている。その違いは何か。思考の流れが現象する「私たちの理解を超えた情報量を建築というメディアにどう詰め込むか」は、基本的には全肯定主義であるが、すべてを無批判に受け入れる何でもいい主義ではない。ここは双方共通している。決定的な差異は、全てのズレを創造的に誤読するレンジがno.00では広がっている、ということであろう。仏たりうる世界が拡がっているということである。どういうことか、首都大助教の門脇耕三さんも指摘しているが、誤読(創造的肯定)のレンジが模型の中だけなのか、大工や現場や所員や素材や地域性に拡張しているのかという違いであろう。
大雑把に言えば、私たちが所謂建築設計のコンテクストとして捉えるのは敷地条件とクライアントである。それがdotにおいては大工さんとの人間関係や大工さんの施工精度、技術、素材、自らの施工技術、自らの人間関係、施工汎用性、予算、近隣住民、さらに微分した敷地条件という具合で誤読可能なコンテクストのレンジが広がっている。
誤読の先が建築だけであれば建築だけに向かい、建築の歴史の上積みに正しく参加し得る建築が出来上がろう。例えばこのno.00を見た二日後に見た豊島美術館は明らかにその建築自体の追求によって世界を開放している。それは建築家による人類が手にする尊厳の表現への、空間提供としての参加である。豊島美術館を設計した西沢立衛さんは明らかに社会的に、人類的に価値を残している。社会を超えて人類の進化に寄与したと言って過言ないだろう。
僕らはこのレンジが拡張された誤読の先に何があるのかを考えなければいけない。
藤村龍至さんは、no.00が醸す建築自体の「頭が高い感じ」が与えるローカルコミュニティ生成への影響を指摘し、大工さんを含めた超並列設計と1Fの公共的な機能とがどのようにとりまとまるのかを説明できれば強度を持った設計論とその作品に昇華可能である、というようなことを仰っていた。確かにコミュニティの生成は包括的な視点であり、有価値である。住宅に入り込む公共性は、機能だけではなくて、大工さんや素材、住宅の形式と広いレンジで捉えることができるし、それは超並列という方法論に適している、そういうことを藤村さんは言いたかったのではないかと筆者は感じた。
ともあれ超並列設計の何が価値なのか。あるいは、二項対立を避けている思考が何故良いのか。
何故良いのかを判断するには、それをどう伝えるか、どのメディアで伝えるかを同時に考えなくてはならない。
空間の強度を示す価値基準に僕らは新しいメディアと基準を必要としているのかもしれない。no.00を観て最初に気になったのはこのno.00の良さを最大限引き出すメディアは何かということだった。写真なのか、動画なのか、人間なのか、twitterなのか、イベントなのか。パラディオが紙に、モダニズムが写真に、BIGが動画に、藤村龍至氏がtwitterに適合したように、dot architectsは自らのメディアを見つけなくてはいけない。それは、僕らが感じた言語を超えた感動をより多くの人間に伝える、価値を価値たらしめる建築家の社会義務である。
地域に根ざしたり、中心市街地活性化の分脈にのせたり、スラムへ行って人道支援活動をしたり、資本主義の終に自らの正統性を担保したり、施工やリサーチやイベントやワークショップや、建築の周りに他者を発見し創造的に誤読する、そういうことが現在的であるとして果たして、その価値を正統に伝えるメディアは現時点で存在し得るのか。
僕は、個人的には関西の建築家ネットワークというものは最強メディアだなと思っている。この日もno.00を語る会と題して総勢20名弱の建築家が車座になって議論を交わした。緩やかにつながるソーシャル・ネットワークそれ自体がメディアとして機能するような時代になっていて、そのメディアとは人間のことなのである。
僕は、やっぱりそういう人間関係が空間に立ち現れたり、仏の空間だと言って作品の良さを誰かに説明したくなったり、近所の人と大工さんの会話が生まれたり、一つの建築の内覧会二次会で緊張感ビンビンの議論が発生したり、人間が在ることの開放性を建築によって創造する、ということに価値を感じる。
一方で豊島美術館のクラシスズムから脈々と続く空間強度が現す現在性には圧倒的な説得力があった。だからこそ土着的な、近視的な人間関係の生成だけに留まっていてはいけないのだ。その素直な微視関係が引き起こす複雑性を丸ごと俯瞰してメディア化する、という作業が誤読のレンジが広がった建築の価値を最大限引き出すのである。
微細な差異(土着的な、近視的な人間関係)を認めながら宇宙という俯瞰(メディア化)を与える、それが仏である。
批評が追いつかない距離でdot architectsには邁進して頂きたい。それは新しいメディアの発見への筋道であり、新しい建築強度の創造を意味するのだから。
僕も必至に追いかけます。
by tsujitakuma
| 2011-04-06 02:35
| architecture