RAD×ねもは対談 「建築的なるものに何が可能か」 |
京都のRADと仙台のねもは編集部という若い世代の建築メディアを担い始めている二組を浜松に招いて、対談が行われた。
RADは川勝真一と榊原充大による、京都を拠点に活動するリサーチ組織。
その活動は多岐に渡り、展示スペースrad lab.で行われるrep、地域へのコミットメントをテーマにしたインタビューQueiry qruse、Volumeを翻訳するREAD TANK、リサーチをリサーチしたResearch for researchとウェブ空間、実空間を飛び越え、アウトプットの数だけ名前がある。
そんな彼らが企画したグループ展「space ourselves」を浜松へ呼んだことがきっかけで、今回の対談が実現した。
対談相手は東北大学五十嵐研究室を拠点に活動しているねもは編集部。
アウトプットは紙媒体の同人誌のみ。
一見対照的な二組だが、その根底には建築=空間という価値観を再構成し、新しい枠組みを与えたいというモチベーションが共通してあった。
RADにねもはをぶつけてみたいと思ったのはそういう枠組みへの意識がお互いから感じられたからだ。RADにはアンテナのレクチャー「都市の現象学」に登壇して頂いた時からその活動の意識の矛先に現在性を感じていた。
対してねもはの市川紘司と403は横浜国立大学時代から知る旧友。とはいえ、大学院を東北へ移してからの彼の活動は学生の域をとっくに超え、正統な歴史に接続する一方、既存の枠組みへのフラストレーションが垣間みえていた。彼らが同人誌という媒体を選択してねもはを立ち上げたことで、一気に顕在化したように思う。
RADは公共という枠組みを、ねもははメディア、批評という枠組みを、ひいては双方「建築」あるいは「建築的なるもの」の枠組みを再定義しようとしているように思う。
space ourselvesという野心的な試みをまず紹介しよう。
京都→東京→浜松と15組前後の出展者を少しずつアジャストしながら巡回したこの建築家によるグループ展のサブテーマは「私たちの/による/ため つくられ/発見され/実践される 空間を生み出す建築のかたち」。
簡単に概要を説明すると、出展者の出展条件は300mm四方に収まる、1/30の模型、複数人で施工可能、不特定多数が利用可能というシンプルなもので、そこから彼らの公共性に対する願いが見て取れる。
市役所や文化センターなど所謂公共施設の管理は行政が行っているケースが多いが、実際に使用する市民は使うだけで、RADはそのような一方的に与えられる所与のものとしての公共をオフィシャルとして批判する。
そうではなく、コモンで、オープンな公共性の在り方を彼らはこの展示で提示したかったという。
建築を作る上で重要なのは竣工という一点ではなく、建築の前提、設計、施工、運営に関わるすべての時間と、場所と、主体を積極的に関係付けさせ、共有し、公共を使い手に引きつけることでより能動的な公共を獲得していこうってことである。
彼らはこの展示で二つの枠組みを疑っている。一つは建築の竣工がゴールだという建築界の意識。もうひとつは、空間とアクティビティは自分で作るものではなく(自分の家でさえ)与えられる物だという近代以降の社会認識である。
ここで一つ釘をさして置かねばならないのは、筆者が「RADが批判する、疑う」という時、それは単に否定しているわけではなく、彼らはそれらを前提として一旦受け入れた上で多様な選択肢を与えようとする意思を示していることである。
ともあれ、彼らはこの展示によって、公共の在り方と建築の在り方と建築家の在り方と建築展示の在り方のオルタナティブを示したのではないだろうか。
当日のレクチャーでは彼らはこのSO展を軸にして自身の活動のモチベーションを披露してくれた。
「建築ではなく、『建築』の存在の仕方を考えたい」という榊原の言葉に象徴されよう。
対してねもはである。
そのアウトプットは同人誌という小回りが効く紙媒体が中心でありがなら、実質的な広告はウェブが中心である。後述するようにゼロ年代のスモールメディアを代表する手法だろう。
彼らのプレゼンテーションのテーマはメディアである。
まず日本の戦後建築メディアの流れを、
1勃興期=戦後-1960s
2変動期=1960s-70s
3安定期=80s-2000s
とわけ、
1957の新建築問題によって大きくメディアの見取り図が変化し、批評中心の新建築がデータベースとしての機能を担い始め、代わりに建築文化、SDといった批評が生まれたが、現在生き残っているのは新建築のみで、文字ベースの雑誌はゼロ年代に尽く廃刊に追い込まれているという認識を示した上で、現在、RAJ、建築と日常、アーキテクチャとクラウドというように自費出版に近い形で1000-2000部のマーケットを狙う手法がゼロ年代的なメディアのあり方として、その延長にねもはは位置づけられるとしている。
さらに「ねもはがしたいこと」として、
A 若い書き手が集まる媒体を作る
B ゼロ年代建築というフレームを作る
というマニフェストをまず披露し、創刊号となったねもは01では若い書き手による絶版本のレビューをまとめた「絶版☆ブックレビュー」が特集された。
まだ文学フリマでしか販売されていないねもは02では「すばらしい建築プレゼンテーションの世界」と題して、ゼロ年代を賑わした建築の二次元的なプレゼンテーション自体に焦点を当て、且つそれを建築的として肯定しようとしている。建築の解体によってかつての磯崎が召喚したハンス・ホラインを引き合いに、ホラインの「すべては建築である」が近代建築への強烈な批判として機能していたのに対して、僕らの世代はベタに「すべてが建築(的)である」と思ってしまっているのだという時代認識の下で。
夏前に開催された文学フリマで販売されたねもは02文学フリマ号を大幅に拡張したねもは02夏号が9月初旬に刊行予定とのこと。
その後の対談では、
建築界の新しい動きとしてコミュニティ、マネジメントへ参加する建築家の可能性と、それを表現するメディアの今後について議論された。
枠組みを新しく定義する時は近い。
ここで、上記した新しい動きを繊細に追うということは僕個人はもう十分と思っている。
それらが新しい、僕らはそれを感じているんだ、もっと繊細にそれらを定義しようということは思い切って彼らに任せよう。
明らかな課題は、メディアがない、ということと、経済にタッチする回路が見えにくいということである。2009年の建築夜学校で既に議論されているが、設計プロセスや運営まで余条件として捉えることで建築家の職能を拡大する、竣工前後の時間を含んだプロジェクトという捉え方が今なんとなく求められているし、そしてそれ(主に時間)を表現するメディアを私たちはまだ捉えきれていないのではないかという論点が、この日集まった同世代では明らかになんとなくではなく確信に近い形で共有されていたと感じている。(この日最もトーンダウンしたのは、結局稼げないんじゃねという議題になったときである。)
さて、最近の建築系のシンポジウムでは、プリツカー賞を受賞したSANAAより、建築家とは名乗らず、ランドスケープデザイナーからコミュニティデザイナーと呼ばれるようになった山崎亮氏の名前を耳にするが、この日も当然話題に上がった。
僕は不思議に思うのだが、山崎さんのメディア活動はそれほど活発ではなく(筆者が知る限り著書二冊とテレビ放送程度)、にも関わらず圧倒的なプレゼンスを獲得しているように見える(少なくともtwitter上では)。
彼は上記した新しい動き(コミュニティ、マネジメントへの参加)を「建築はつくりません」宣言によって体現し、且つ、なんとなくプレゼンスを獲得し、そしてお金も生み出している。
山崎さんは、僕らの目指していることの全部を完璧に、「建築をつくらずに」体現しているという事実を真に受けるならば、彼によって建築は否定されているようにも思われる。磯崎新は声を大にして都市から撤退したが、山崎さんは何食わぬ顔で建築から撤退した。
でもここ数年で、山崎さんがコミュニティの促進と運営=ソフトを担当して、建築家がハードを担当するという事例が幾つかでてきて、両者は共存しかけている。
穂積製材所プロジェクト(設計 dot architects、spacespaceなど)
マルヤガーデンズ(設計 みかんぐみ)
上州富岡駅舎コンペ入選案(谷尻誠と共同)
延岡市駅周辺整備事業(デザイン監修 乾久美子)
特筆すべき事例は最後の延岡市駅周辺整備事業で、乾さんの役割は建築家のような、コミュニティデザイナーのような、都市計画家のような、リサーチャーのような、まちづくりデザイナーのようなもので、現状の言語では全く掴みづらいが、この役割を青木淳事務所出身の乾氏が担い、山崎亮さんと共存していることが何よりも興味深い。
この事例はソフトとハードという単純な二項対立ではない、複雑に主体が入り組んだプロジェクトの全体を能動的に公共化する流れに対する建築家の役割を示している。
50年前に「都市」から退いた磯崎によって殺された(あるいは生かされた)建築家、のゼロ年代における新しい動きは「建築」から退いた山崎亮によって殺され、あるいは生かされるだろう。
その時に私たちが考えなければならない問いは、やはり、建築とは何かではなく、建築に何が可能かである。
一歩踏み込んで言えば、
建築的なるものとは何かではなく、建築的なるものに何が可能か、である。