2012年 04月 11日
地方都市の住宅地に作られたなんだか用途のよくわからない小さなガレージにだって建築の世界は変えられる |
建築家・内藤廣氏は、島根県益田市に竣工した島根芸術センターが掲載されている新建築2005年10月号に寄稿した論考「建築に何が可能か」で
"設計に託されているのは、プログラムとサイトだけではどうしても導き出せない何か、それらの組み合わせだけでは絶対に生み出すことが不可能な何かを作り出すことのはずだ。そして、それこそ建築にのみ可能なことだ。"
という言葉を残している。

島根芸術センター(撮影筆者)
建築設計において、機能と敷地条件との応答はごくごく当たり前に求められることだし、求めることでもあるし、建築教育を受けたものであれば当然染み付いた常識である。
そのどちらからの説明の仕方もひとまず可能だがそれだけでは全く的を得ていないような建築を先日体験してきた。島根芸術センターは言わずもがなだが、場所は静岡県、もっともっと小さな規模のガレージである。
静岡県掛川市(旧大須賀町)、古くから横須賀城の城下町として栄えた町並みを残すゆったりとした環境を近くにもつ住宅地に、建築家・渡辺隆が設計した「カットハットガレージ」はある。
この建築は住宅ではなく、1Fガレージ+2F店舗という構成で既にあった住宅棟、駐車場、ガレージを取り結ぶように新築されている。

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
聞けばクライアントは、自宅でカーケアグッズの通信販売を営む一方、かなり気合の入ったコレクターでもあるそうで、その仕事と趣味のスペースを以前からあったガレージスペースを拡張する形で新築したいという要望だったそうだ。
そこにクライアントの奥さんが始める予定の美容室機能が加わり、1Fがガレージ、2Fが美容室という構成となっている。
南面道路の敷地の向かって右奥に住居、右手前に駐車場、左奥に既存ガレージがあり、このカットハットガレージは左手前、ガレージと道を結び、駐車場と住居の間にある庭を取り込むように配置されている。

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
だから新築、というよりも増築に近い。新築した、というより、もともとあった住居、ガレージ、駐車場に、ガレージと店舗を増築した。という表現が近い。
しかしこうした表現が、それ自体がどうもしっくり来ない建築なのである。
渡辺氏に直接話しを聞いてみると、そもそも要求された機能があまり決まっていなかったのだという。
そもそもガレージを拡張したいということは決まっていたが具体的にどう使うのかは保留されていたり、美容室も最初は小さなものだったがどんどん要求が増え2Fのほとんどを専有するようになったり、でもそのオープン時期は未定だったりと、普通に考えると余条件がなかなか出にくい状況だったといえる。しかし、この建築は物質として確かに竣工した。
渡辺氏によればクライアントが自営業のため、常に隣の自宅にいたことが大きかったのだという。現場監督、大工、施主は同じ場所に常にいるのだから、設計者がいけばすぐに打ち合わせが可能でその都度決定を繰り返すことができる。
いつでも決められるという安心が余条件の保留や変更を可能にしたといってもいい。この設計時における余裕の必要性の話は、中山英之氏がAAR2010年2月号でシュミレーション技術による決定の先延ばしを語っている。カットハットガレージでは、それを技術ではなく、コミュニケーションで補った例といえよう。
こうして得られるのは、形式知というよりも暗黙知に近い、所謂余条件よりも高精度で広範囲な情報群である。だから一般的な必要な単語、機能や敷地条件に置き換えずとも有機的に決定を下すことが可能となるのだ。
だから部分部分では、この建築を構成する要素は説明がより簡単になる。
鉄骨構造の現しはメカニカルなガレージの雰囲気と予算から選択され、オーバーハングシャッターはクライアントがマニアックなルートから意見を出して選択され、庭とのつながりを可変的に保つためにフルオープンのスライドドアが東側に取り付けられ、地方で美容室を営むという清潔感を保つためできる限り複雑な鉄骨組を白で塗装している。

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
大きな特徴でもある幅のある集成材のサッシ周りの木枠は、工業製品に近い素材感と既存のサッシを同じ素材で覆うために集成材が選択され、

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
本来であれば焦げ茶でまとめそうな合板の床仕上げもオイルペイントの白を選択することでチープさを避けている。複雑に入り組んだ鉄骨や設備配管のどこまでを白く塗るのかという問いに対して渡辺氏は抽象するでもなく、素材感をあらわにするでもなく、現場との応答によって決められたことが容易に想像できる。
かといって、全体性や機能性(配置計画は要素同士の関係性の話である)や構造的な統合性がないわけではない。
道から眺める建ち方は、駐車場のルーフや、住宅棟、裏のガレージと驚くほどに溶け込んでいるし、クライアントもとても使いやすいと機能性を認めている。
工業製品をふんだんに使っていながら、地方都市で活動してきた渡辺氏の清潔感の演出が行き届き、ガレージと美容室という、機能的(意味的)にはかなりかけ離れたプログラム同士が地方都市の住宅地で成立しているのである。
端的に言えば、機能から設計せず、機能的になっていて、敷地から反応せず敷地に溶け込んでいる。ということである。
そこに論理的な飛躍はたぶんそれほどなく、渡辺氏の言葉から推測するに、コミュニケーションの量と質を増やし、普段通りに設計したらできたという自然な連続性があるのだと思う。
そもそも渡辺氏のこれまでの住宅は形式が強く、縮尺を下げた小さな住宅の模型はどれも特徴的なボリュームを示し、大変形態がわかり易い。独立前は西部地区で有数の組織設計事務所に勤務し、独立のきっかけとなった自宅「イワタノイエ」の説明時では組織では出来ないディテールを目一杯詰め込んだと仰っていた。「組織設計にいた事、地方都市で設計していた事に引け目を感じていたわけではない」と渡辺氏はよく語る。それは確かにそうだと思うのだが、心の何処かでアカデミズムやメディアに対する憧れがあって、設計料という概念も危うい地方都市の現実との間で揺れ動いて、図式的な形態に落ち着ちついて(落ち着かせいた)のだと、そう推測する。
が、このカットハットガレージではそういう迷いが一切ない。いや、全てが迷いながら、迷ったままの状態で選択され続けた結果とも言える。
誰でも彼でもこのような選択をできるわけではない。
渡辺氏の培ってきた地方都市を生き抜く術、形式やディテール、発注の仕方、施主のニュアンスの汲み取り方、設計技術、そういった土台の上に、コミュニケーションの質と量が担保されたから、私は、この建築で渡辺さんが爆発したと直感したのである。所謂、建築の形式や図式といったアカデミズムの前線が渡辺さんに纏わりついて、生き抜く術と押し合いへし合いやってきた中で、その押し合いへし合いがふと消えた瞬間があったのだろう。
その瞬間を持てるかどうかでこれからの建築家の価値は決まる。
新しい図式発見ゲームがやっと終わるのではないかと私は感じている。
近くに偉大な建築ができたことを誇りに思う。
もう一度内藤氏の言葉を引用させて頂く。
"設計に託されているのは、プログラムとサイトだけではどうしても導き出せない何か、それらの組み合わせだけでは絶対に生み出すことが不可能な何かを作り出すことのはずだ。そして、それこそ建築にのみ可能なことだ。"
この、「建築にのみ可能なこと」は、グローバリズムや画一的な価値観、わかりやすい消費活動とすこぶる相性が悪いということに私は最近気づき始めた。のっぴきならない生への渇望が求められている場所と、「建築にのみ可能なこと」の相性は素晴らしく良いのである。
ひとまず、建築にとって重要視されていたプログラムも敷地条件も、決定的で絶対的に重要な要素ということではなくて、単に変わり得る諸条件の一つであるから、プログラムや敷地条件が少しくらい変化しても許容できるような建築の設計の仕方が今求められていて、その可能性はコミュニケーションの質と量を担保できる場所にこそある。ということが言えるのではないだろうか。必ずしも大規模にあからさまに一生残るコンクリートの頑丈な塊を残すということ以外でも、地方都市の住宅地に作られたなんだか用途のよくわからないガレージにだって(にこそ)それは可能であるということを渡辺隆さんは示してくれた。
※参考
新建築2005年10月号
Art and Architecture Review 2010年2月号 http://aar.art-it.asia/top
渡辺隆建築設計事務所HP http://www.tawatana.be
"設計に託されているのは、プログラムとサイトだけではどうしても導き出せない何か、それらの組み合わせだけでは絶対に生み出すことが不可能な何かを作り出すことのはずだ。そして、それこそ建築にのみ可能なことだ。"
という言葉を残している。

島根芸術センター(撮影筆者)
建築設計において、機能と敷地条件との応答はごくごく当たり前に求められることだし、求めることでもあるし、建築教育を受けたものであれば当然染み付いた常識である。
そのどちらからの説明の仕方もひとまず可能だがそれだけでは全く的を得ていないような建築を先日体験してきた。島根芸術センターは言わずもがなだが、場所は静岡県、もっともっと小さな規模のガレージである。
静岡県掛川市(旧大須賀町)、古くから横須賀城の城下町として栄えた町並みを残すゆったりとした環境を近くにもつ住宅地に、建築家・渡辺隆が設計した「カットハットガレージ」はある。
この建築は住宅ではなく、1Fガレージ+2F店舗という構成で既にあった住宅棟、駐車場、ガレージを取り結ぶように新築されている。

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
聞けばクライアントは、自宅でカーケアグッズの通信販売を営む一方、かなり気合の入ったコレクターでもあるそうで、その仕事と趣味のスペースを以前からあったガレージスペースを拡張する形で新築したいという要望だったそうだ。
そこにクライアントの奥さんが始める予定の美容室機能が加わり、1Fがガレージ、2Fが美容室という構成となっている。
南面道路の敷地の向かって右奥に住居、右手前に駐車場、左奥に既存ガレージがあり、このカットハットガレージは左手前、ガレージと道を結び、駐車場と住居の間にある庭を取り込むように配置されている。

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
だから新築、というよりも増築に近い。新築した、というより、もともとあった住居、ガレージ、駐車場に、ガレージと店舗を増築した。という表現が近い。
しかしこうした表現が、それ自体がどうもしっくり来ない建築なのである。
渡辺氏に直接話しを聞いてみると、そもそも要求された機能があまり決まっていなかったのだという。
そもそもガレージを拡張したいということは決まっていたが具体的にどう使うのかは保留されていたり、美容室も最初は小さなものだったがどんどん要求が増え2Fのほとんどを専有するようになったり、でもそのオープン時期は未定だったりと、普通に考えると余条件がなかなか出にくい状況だったといえる。しかし、この建築は物質として確かに竣工した。
渡辺氏によればクライアントが自営業のため、常に隣の自宅にいたことが大きかったのだという。現場監督、大工、施主は同じ場所に常にいるのだから、設計者がいけばすぐに打ち合わせが可能でその都度決定を繰り返すことができる。
いつでも決められるという安心が余条件の保留や変更を可能にしたといってもいい。この設計時における余裕の必要性の話は、中山英之氏がAAR2010年2月号でシュミレーション技術による決定の先延ばしを語っている。カットハットガレージでは、それを技術ではなく、コミュニケーションで補った例といえよう。
こうして得られるのは、形式知というよりも暗黙知に近い、所謂余条件よりも高精度で広範囲な情報群である。だから一般的な必要な単語、機能や敷地条件に置き換えずとも有機的に決定を下すことが可能となるのだ。
だから部分部分では、この建築を構成する要素は説明がより簡単になる。
鉄骨構造の現しはメカニカルなガレージの雰囲気と予算から選択され、オーバーハングシャッターはクライアントがマニアックなルートから意見を出して選択され、庭とのつながりを可変的に保つためにフルオープンのスライドドアが東側に取り付けられ、地方で美容室を営むという清潔感を保つためできる限り複雑な鉄骨組を白で塗装している。

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
大きな特徴でもある幅のある集成材のサッシ周りの木枠は、工業製品に近い素材感と既存のサッシを同じ素材で覆うために集成材が選択され、

図版提供 渡辺隆建築設計事務所
本来であれば焦げ茶でまとめそうな合板の床仕上げもオイルペイントの白を選択することでチープさを避けている。複雑に入り組んだ鉄骨や設備配管のどこまでを白く塗るのかという問いに対して渡辺氏は抽象するでもなく、素材感をあらわにするでもなく、現場との応答によって決められたことが容易に想像できる。
かといって、全体性や機能性(配置計画は要素同士の関係性の話である)や構造的な統合性がないわけではない。
道から眺める建ち方は、駐車場のルーフや、住宅棟、裏のガレージと驚くほどに溶け込んでいるし、クライアントもとても使いやすいと機能性を認めている。
工業製品をふんだんに使っていながら、地方都市で活動してきた渡辺氏の清潔感の演出が行き届き、ガレージと美容室という、機能的(意味的)にはかなりかけ離れたプログラム同士が地方都市の住宅地で成立しているのである。
端的に言えば、機能から設計せず、機能的になっていて、敷地から反応せず敷地に溶け込んでいる。ということである。
そこに論理的な飛躍はたぶんそれほどなく、渡辺氏の言葉から推測するに、コミュニケーションの量と質を増やし、普段通りに設計したらできたという自然な連続性があるのだと思う。
そもそも渡辺氏のこれまでの住宅は形式が強く、縮尺を下げた小さな住宅の模型はどれも特徴的なボリュームを示し、大変形態がわかり易い。独立前は西部地区で有数の組織設計事務所に勤務し、独立のきっかけとなった自宅「イワタノイエ」の説明時では組織では出来ないディテールを目一杯詰め込んだと仰っていた。「組織設計にいた事、地方都市で設計していた事に引け目を感じていたわけではない」と渡辺氏はよく語る。それは確かにそうだと思うのだが、心の何処かでアカデミズムやメディアに対する憧れがあって、設計料という概念も危うい地方都市の現実との間で揺れ動いて、図式的な形態に落ち着ちついて(落ち着かせいた)のだと、そう推測する。
が、このカットハットガレージではそういう迷いが一切ない。いや、全てが迷いながら、迷ったままの状態で選択され続けた結果とも言える。
誰でも彼でもこのような選択をできるわけではない。
渡辺氏の培ってきた地方都市を生き抜く術、形式やディテール、発注の仕方、施主のニュアンスの汲み取り方、設計技術、そういった土台の上に、コミュニケーションの質と量が担保されたから、私は、この建築で渡辺さんが爆発したと直感したのである。所謂、建築の形式や図式といったアカデミズムの前線が渡辺さんに纏わりついて、生き抜く術と押し合いへし合いやってきた中で、その押し合いへし合いがふと消えた瞬間があったのだろう。
その瞬間を持てるかどうかでこれからの建築家の価値は決まる。
新しい図式発見ゲームがやっと終わるのではないかと私は感じている。
近くに偉大な建築ができたことを誇りに思う。
もう一度内藤氏の言葉を引用させて頂く。
"設計に託されているのは、プログラムとサイトだけではどうしても導き出せない何か、それらの組み合わせだけでは絶対に生み出すことが不可能な何かを作り出すことのはずだ。そして、それこそ建築にのみ可能なことだ。"
この、「建築にのみ可能なこと」は、グローバリズムや画一的な価値観、わかりやすい消費活動とすこぶる相性が悪いということに私は最近気づき始めた。のっぴきならない生への渇望が求められている場所と、「建築にのみ可能なこと」の相性は素晴らしく良いのである。
ひとまず、建築にとって重要視されていたプログラムも敷地条件も、決定的で絶対的に重要な要素ということではなくて、単に変わり得る諸条件の一つであるから、プログラムや敷地条件が少しくらい変化しても許容できるような建築の設計の仕方が今求められていて、その可能性はコミュニケーションの質と量を担保できる場所にこそある。ということが言えるのではないだろうか。必ずしも大規模にあからさまに一生残るコンクリートの頑丈な塊を残すということ以外でも、地方都市の住宅地に作られたなんだか用途のよくわからないガレージにだって(にこそ)それは可能であるということを渡辺隆さんは示してくれた。
※参考
新建築2005年10月号
Art and Architecture Review 2010年2月号 http://aar.art-it.asia/top
渡辺隆建築設計事務所HP http://www.tawatana.be
by tsujitakuma
| 2012-04-11 04:27
| architecture