Dear Chim↑Pom |
初めまして、僕は静岡県浜松市で建築設計事務所を三人で営んでいる辻琢磨と申します。
さっき「芸術実行犯」を読み終えました。勇気づけられました。この衝動を言葉にしてお伝えしたく、キーボードを叩いています。

僕は、1986年生まれの26歳です。
今は大学時代の同級生二人と浜松で建築設計や大工仕事やまちづくりや資材運搬などをいろいろ関連付けてやっています。
やっていますが、三人とも大学を出ていきなり独立したので、大人のルールがよくわかっておらず、例えば見積書の書き方とか、電話の丁寧な出方とか、敬語の使い方とか、コンパネをまっすぐに丸のこで切る方法とか、お金と責任の関係とか、もろもろよくわからないまま突入して失敗の度に多くを学んでいます(それがいいことかどうかはわからないですがとにかくあらゆる環境から学んでいる)。
今回「芸術実行犯」を読んで、現在美術の海原を知り、既存の消費社会や大人のルールに実感をぶつけてひっくりかえる世界を実践する方々に僕も共感を覚えました。
2012年の12月は衆議院の総選挙が予定されていて、twitterでは自民党が極右だ石原が、維新がむにゃむにゃという意見が散見され何が正しい情報なのかよくわからないので、とりあえず自分自身はTPP、原発、改憲、消費税増税に対して是か否かというようなことをなんとなく考えなきゃというのが、今「スペクタクル」から私達に与えられている一般的な政治参加のツールです。このルールの外側を探る回路を見つけるのが難しい、難しいというか正直面倒。
Chim↑Pomの皆さんはこの私たちの外側(と内側の関係)を外側と内側の両方に片足ずつ突っ込んで私達に提示してくれているのだと感じました。圧倒的な覚悟によるアートによって。
リアリティ、批評性、消費社会、反射神経、伝える覚悟。
この五つの言葉は芸術実行犯の中で僕が感じ、自分の活動でも常に意識しているテーマです。
<リアリティ>
建築設計事務所の仕事は、建物を設計することが主で、施主から要望を聞いて、反映して、設計して、それを作ってもらう人に伝えることが仕事ですが、今の業界では、施主から要望を聞くことや、反映すること、それを作ってもらう人に伝えることに対するストレスが散見されます。施主も、作って貰う人も遠くにいて、リアリティがないからです。僕らはそのリアリティは東京で得るよりも浜松の方が得やすい状況があって、漠然とした社会を実感するために浜松で、設計も施工もまちづくりも運搬も、自分たちはすべてが素人ですが、今は勉強の意味も込めて自分たちで行うことが多いです。もちろんプロフェッショナルに任せた方がいい状況だって腐るほどありますが。
<批評性>
浜松という小さな社会の中で、都市そのものに実感を持って反応する態度が重要だと感じています。(ここでの「建築」という言葉はChim↑Pomの皆さんがいうところの「アート」と置き換え可能かもしれません)僕らはその矛先に建築があって、今まで建築のために反応するべき要素として捉えられて来なかったものにも積極的に反応する、例えば廃材や、デザインとか知らないじいさんの意見、農業用の資材や、床下の空間、古びたアパート、商店街、スラム街、たくさんの素人で施工すること、減築や解体や改修、今までは建築にかかわらなかったことを建築の問題にすることが建築の領域を広げ、社会の状況を建築によってあぶり出すための批評性となると思っております。そしてそれは相対的に今までの建築の意義をあぶりだすものだと思っています。
<消費社会>
僕はよく建築の質についてもよく考えます。個人的には、消費社会の論理だけで作られたお金を稼ぐためにお金がたくさんかかっている建物の質はよくないと感じています。お金について考えてみます。お金の起源は、高度なコミュニケーションを媒介した二人の間での物々交換です。そうしてこの交換システムはとてつもない数の人間の間での経済システムへと成長しました。この成長の過程で、物々交換が代替物を介した交換になった瞬間があり、この瞬間に交換価値以外の価値が生まれたと言えます。代替物は最初は貴重な石や金属でしたが、そこまではまだ物自体の価値を持っていたが、印刷技術の発明によって紙幣が生まれ、物自体の価値は記号と信頼によってのみ担保されるようになったのです。この過程でシステムに関わる人間の数は飛躍的に増加し、その分だけコミュニケーションの質は置き去りにされていきました。要するに、お金は、そのシステム自体にコミュニケーションの欠落が内在されているということです。極端に言えば、お金(基軸通貨)の周りにはコミュニケーションの実感がないということです。
とはいえ、そのようなお金の論理で動き続ける消費社会の中で僕らは生きていますし、その恩恵を受けて(主体的であれ受動的であれとにかく)育って来ました。だから僕はなんでこんな世の中なんだよという怒りと、それでもこの世の中のルールによってここまで生かされてきたという尊敬の両方を抱えています。
<反射神経>
とてつもないスピードで状況が変わり情報が流れる現代において、自分たちが反応できるポイントは限られます。限られますが、有限であるからこそなるべくたくさんの要素や多様な状況に反応できる透明な精神を持ちたいと考えています。そして、今こうしてChim↑Pomの皆さんに反応しているように、自分の反応を何らかのコミュニケーションに置き換えることを意識しています。なぜなら反応の連鎖こそが、それ自体が希望だからです。
<伝える覚悟>
自分たちの活動が専門雑誌やウェブサイトで紹介されることが多くなりました。レクチャーに呼んで頂く機会も増えました。twitterやブログで発信もできます。このような発信しやすい環境の中で、今浜松という東京と京都の中間くらいの場所でいきなり独立して三人で共同生活しながら円通貨の獲得に困りつつも新しい建築を目指していることが、可能であること、可能にしていること、この時代を生きる価値観の選択肢の1つを提示しなければマスメディアに乗っかる意味はないと思いますし、個人のメディアでも価値観の選択肢が伝搬するような言葉を意識しています。
一方で、伝える主体、伝えられる主体、つまり自分と他人の境界についても考えます。
そもそもそういう境界がほんとうにあるのかと。
例えば一秒前/後の自分と今の自分について考えると両者は同一で連続していると思う「今」の意識があるだけで実際は違う存在であって、その事実を実感できるなら、雲も木も花もあなたも一秒前/後の自己も含めた「今の自分以外の全ての他者」が並列になります。故に、雲、木、花、あなたと自己は(意識の上では一秒前/後の自己と同様に)連続できると思うのです。こうした過去の自分、未来の自分も含めたすべての他者に対して、当事者意識を持つことがとても重要だと感じています。そしてその当事者意識を持ったまま他者へ言葉を投げかけることが伝搬につながるのではないでしょうか。
本当にとても共感しました。
同時に、自分もひっくり返るためにもっと精進しなければならないと思っています。作品だけではなくて、このような書籍によって言葉を残してくださり、本当に有難うございます。