私/世界とは何か |
仕事や建築設計をしていると、建築とは何か、私とは何か、世界とは何かという問いよりも建築に何が可能か、私に何が可能か、世界に何か可能かをついつい外圧に押されて考えてしまうのだけれど、そもそも私は私とは何かを考えやすく悩みやすい面倒な人間なので、必死に走ったこの二年の間、着実に私とは何か、世界とは何かという問いのことを考えることを控えざるを得ず、もやもやはたまる一方なのであった。
10年くらい前は私はメディア情報と教育と少しの遺伝子によっ成り立っていて、ともすればメディアにコントロールされてきたとさわやかに勘違いして朗らかに絶望した。
それでも私とはそうしたメディアや社会や既存のシステムによって恩恵を受けてきてそれらは既に私の一部になっているのだから、コントロールされる対象ではないのだ、私そのものだ。と私が拡張されたのは大学院を卒業するくらいである。でも、周りの友人や学生は「メディアにコントロールされ」て就活するし受験に追われる。なんでサラリーマンなんて道を選択するんだろう、全然主体的じゃないしダセェなと思っていたけど、仲のいい友人にはそういうこと言えないし、社会システムの批判ばかりしても結局はその社会システムに生かされている自分を否定してしまうことになるからもやもやは晴れないのであった。
西田幾多郎という哲学者は、社会や、システムだけではなくて、花も、木も、空も、あなたも、現在のすべての要素が私なのであり、すなわち現在とは世界のことだ、それを主客が分つ前に実感することが真実在であり善であり、絶対矛盾的自己同一性を達成する場なのであるということをその後教えてくれて、またしても世界が広がった。私とはあるいは、世界とは現在のすべてだ。現在のすべては許容できる。社会システムもそれに生かされている私も、それを批判しようとした私も、シュウカツも、サラリーマンも、自然も、建築家も、有り難いから有っていい。そう思っていた。今も思っている。こういう考え方は変化ではなく上積みだからである。ただ、現在を生きることに執着すると、過去や未来がどうでもよくなってしまう。過去に起こったことはすぐに忘れ、未来はわからないからと予定を決めない。理想的には現在だけがすべてでも、過去や未来を怠ることは信頼から遠い位置にあって、それはそれで現在を生き過ぎる自分のことにもやもやするのであった。過去がどうでもよくなってきた頃から、過去の時系列が自分の中でバラバラになっていった。高校生と大学生の思い出、どっちが先だっけという風に。そもそも、認知的に一秒前の自分と現在の自分が連続していると思っているだけなのであって、真実としては自分は時系列的に全く他者の不連続体であって、例えば現在の周りにある他者=例えば今僕の目の前にある紙の財布と一秒前の私は同列の要素として唯そこに在るのだと僕の頭は認識している。
そして今、私は何を私と考えているか。
数日前、高校生のときに聞いていたMDを掘り出す機会があって、それを聞いてみた。当時の忘れていた思い出を思い出す瞬間があったのだが、そのとき、私はその過去によって思い出す前の私と、決定的に違う人間になったのである。過去に影響され私が変化した。そう考えると現在だけがすべてではなくて、過去にだって影響されるし未来にだって影響される。一年前の社会や、システムだけではなくて、花も、木も、空も、あなたも、十年前の社会や、システムだけではなくて、花も、木も、空も、あなたも、一年後の社会や、システムだけではなくて、花も、木も、空も、あなたも、十年後の社会や、システムだけではなくて、花も、木も、空も、あなたも、すべては現在に影響する、私なのである。ということに気づいたときに、私とは時間を含んだすべてなのであると了解されたのである。
そう考えると、私とはほぼ無限に近い膨大な要素それ自体であり、あるいはその要素群との間の関係性であって、そのどれか一つでも欠けたら違う私になってしまうのであるという意味において、例えばバタフライエフェクトのような影響力の大きさに圧倒されるように、過去も未来も現在も含めたすべての要素を有り難いと思う。それは、無限の要素の内の一つでも違っていたらあり得たかもしれないいくつものパラレルワールドの存在を意味していて、その無限のパラレルワールド自体も私を構成する、私に影響を及ぼす私や世界を構成する要素であり、たった一人の私でさえ、無限の要素のどれか一つでも違えたら発生するほど数え切れないパラレルワールドを私と世界に据え置いてるのであれば、あなたや友人やまた私ではないすべての他者も同様にパラレルワールドを支えていると考えられる。いったい、どれほどの可能性の中で私たち世界は生きているのだろう、しかも、上記した無限の要素がそれぞれ独立し影響を及ぼすのだ。複雑すぎてもはや、世界は私以上に複雑な私であるという表現しか表現し得ないという状態が今である。
私を構成する過去や未来を含めたすべての他者というのは無限以上に無限なのであり、そうであるが故にこの瞬間、現在にいる今この瞬間の私の価値とは1/無限以上の無限という大変に貴重な存在なのであり、同時に異なる位相の時空瞬間へ向けて無限以上の無限の可能性を有しているということを今考えている。