琉球は鮮やかに世界を開く |
沖縄というより琉球
7日間の琉球滞在を終え、これから本島へ戻る。この島々は、日本国に属する「沖縄県」というより、戦前までは清国、東南アジア諸国の、戦中-戦後にかけて米国の影響を日本以上に取り込んだ「琉球」なる存在が現代にアジャストした圏域であることを強く実感した。以下では、沖縄ではなく琉球という言葉を使わせて頂く。
恥ずかしながら、この場所がわずか35年前までアメリカ合衆国の統治下にあったこと、太平洋戦争における唯一の本土決戦によって10万人を超える民間人が戦死したこと、1609年に薩摩に侵攻され幕府の支配下にありながら対外的には清国の交易国として独立していたこと、をほとんど知らなかった。私が習ってきた教科書では、きっと数行でまとめられていたであろうこれらの情報は、とても日本で起こったとは思えない歴史として私には受け取られた。しかし、沖縄の友人は、旧盆の日を、牛島中将の自決した日を、道路の走行車線が右から左へ移った日を、当たり前に知っていた。教育の影響力を感じた。
戦争に対する歴史観
中でも、平和祈念資料館でみた戦争の歴史実は、どこまでが真実かわからないまでも、それまで自分が真実と思っていた歴史観とは違っていて、インパクトがあった。
平和の礎|平和祈念公園
例えばアジア諸国の大日本帝国に対する教科書記述の比較が気になった。総じて日本を悪く言っている。どの情報が選択され展示されているかの恣意性を考慮した上でも、こうした記述と私が内地で会得してきた戦争に対する歴史観、日本観とはどこまでも平行線を辿るだろう。ともかく、ここでの資料は当時の日本軍を加害者として、アジア諸国、沖縄民間人を被害者として印象づけるものが多かったのは事実である。しかし展示が進むに連れて親米の色が濃くなる。それはそれでどうかと思う。衝撃的な歴史に対する認識の振れ幅それ自体に、僕は真実を見た。アメリカにはアメリカの、日本軍には日本軍の、沖縄人には沖縄人の、広島には広島の、韓国には韓国の、中国には中国の、それぞれの色眼鏡で歴史は語られる。そのどれもがそれぞれにとって紛れも無い真実であり、日本はアジア諸国を占領した戦争加害者であり、沖縄に上陸され二つの原爆を落とされた戦争被害者でもあるということでしかない。
中でも最も印象的であった戦争に関する歴史実は、集団自決に関することだ。本土決戦の持久戦も限界が見え始め、南部に撤退した日本軍に巻き込まれる形で壕に追い詰められた民間の家族が、投降したら米兵に殺されるし、投降しなくても日本兵に殺されると情報操作されて、止む無く、父親や長男が家族を全員殺めるという悲劇がたくさん起こった。と言われてる。信じられないけど、どうやら事実であったことは間違いないらしい。それを聞いただけでも、今を有難いと思う。重要なのは、こうした当たり前に考えられる戦争に対する実感の伴った認識を、本土で培うのは(広島と長崎を除いて)、現代の若者にとって非常に困難な作業であるということである。信頼できる沖縄出身の友人を持つだけで、状況は変わるのだろうけど。
島国のアイデンティティ
太平洋戦争での沖縄戦の悲劇に代表されるように、内地(本島)出身の私からみた琉球は、薩摩に支配され、清の交易属国となり、アメリカの攻撃を受け、アメリカとなり、本土復帰を果たした今も複数の米軍基地を抱えるという、不憫な場所であり、同時に美ら海のある観光地でしかなかった。なぜか明確に、内地と琉球を差異化してきたように思う。
そんな私が、宮古島の遺産でもある祥雲寺の住職の話を伺う機会を得た。琉球のアイデンティティについて問うと彼は「日本人としての観念そのもの」だと答えた。違うのは緯度と経度でしかないと。琉球を特別視していた僕は面食らったが、そもそも日本とは統一民族による島国であり、日本とは何かを一つの視点でみると琉球の島々は、島国としてのアイデンティティを純粋に持っていると言える。宮古島は島だし、沖縄本島も、九州も、四国も、本州も、北海道も、島だ。視点を広げれば大陸だって海に囲まれた一つの島だ。
資源が限られた一つの島の内部で持続可能性を担保しながら、完全な自給自足ではなく外部と交易を続け、文化を築いていく。これを島のアイデンティティというのであれば、それはそのまま島国日本のアイデンティティであり、一つの限りある資源を囲う地球まで突き詰めれば、人類のアイデンティティとも言えないだろうか。
祥雲寺の住職の話は、そういう射程にあったと後々分かった。吉坂隆正やバックミンスターフラー、西沢大良を彷彿とさせる長期的で外部的な視座であった。宮古島の人たちも神と先祖を大事にするが、これは人類共通のアイデンティティとして我々は解釈することができる。日本人としての主体性こそが重要と、住職は何度も何度も語った。
琉球建築
建築にも少し触れておきたい。琉球の建築と言えば、清国の影響を色濃く受けた首里城や石垣に囲まれた赤い桟瓦の乗った寄せ伝統的な民家が一般的な印象として受け入れられているが、戦後アメリカに統治されて積極的に活用され始めたRC造の建築形式は紛れも無く琉球的である。アメリカの建築技術を積極的に取り入れ、台風の被害を最小限に抑えるために普及したといっていいコンクリートの建築文化は確実に琉球的なるものを表象している。コンクリートの量を最小限に抑えるための柱梁ラーメン構造、薄いスラブ、増築可能性を担保した突き出し柱、圧倒的に豊かな広さを持つ外部空間。言葉で簡単に表現可能なその特徴は、明確に、地域性という言葉に置き換えることが可能である。
コンクリート造の住宅|宮古島
コンクリート造の住宅|池間島
コンクリート造の住宅群|那覇
さらに現地のホームセンターには本土のそれよりも、コンクリート関連の商品が充実している。支保工、セパレーター、の品揃えは豊富だし、木材の中でよく使われるのは型枠用合板(型枠としてだけではなく様々な日曜大工で使用されている)である。さらに石膏ボードの値段が、一枚あたり600-700円と本土のほぼ倍近い価格であることも特筆すべきである。輸送コストもあるのだろうが、コンクリート文化の影響が大きいと思われる。
さらに言えば、建築家が作ったのではない無名のコンクリート建築のクオリティが、非常に高い。建築雑誌をにぎわす外部をたくさん取り込んだ建築の形式が、ここにはそこら中に、アノニマスに存在している。
建築家の作品としても、名作と言われる名護市庁舎(象設計集団:1981)は、圧巻であった。陰影の強い、コンクリートの部材単位の集積は、琉球のような世界が鮮やかな場所では、影こそが建築だと、象設計集団も、吉坂も、コルビュジエも言っているようだった。細かい部材の反復による最大の効果は、光の拡散だと確信した。
名護市庁舎|名護 (設計:象設計集団 竣工:1981)
本土で建築雑誌を見ていても、地域性の現れた特徴的な建築を探すのは難しい。単純に、作品を見て、その作品がどこにあるのかを当てるのは難しいということである。ここでは、きっと言い当てられそうだ。建築の地域性を私は初めて実感した。
歴史とアイデンティティ
歴史とアイデンティティという、改めて日本語にするとなんだか真面目腐り過ぎてダサい響きのする言葉を、僕は琉球で実感した。エメラルドグリーンの海も、白い砂浜も、木登りに優しいガジュマルも、赤い土も、本土にはない。それは緯度と経度の表象でしかない。日本人としてというよりも人間として、私の根底にある観念に琉球は響いた。それはきっと、内地でも、海外でもない、琉球という絶妙な文化圏だからこそ、実感できるものとして私に降り注いだのだ。
政府の右傾化、原発問題、シューカツに悩んですぐ会社やめる同世代、読まれすぎる空気、文化の非成熟、ばかりが目について、これまでどうしても日本という国に対しては、あるいは国民性に対して信頼を覚えることはできなかった。しかし生まれて初めて、日本という国に生まれてよかったと、少しだけだが誇りに感じることができそうだ。琉球のおかげです。
宮古島の海|宮古島