徒ならぬニュートラリティ/杉並区大宮前体育館見学レポート |
青木淳建築計画事務所設計の大宮前体育館を見学させていただいた。
紹介してくださったのは、当時同事務所アシスタントとしてプロジェクトに参加されていた宮内義孝さん。このプロジェクトの主担当は同事務所の酒井氏と品川氏ということで、宮内氏からは「ある程度の客観性で」説明をいただきながら見学することができた。
(参考リンク先 : プロポーザルコンペ(結果) / 図面概要 / 青木事務所による現場ブログ / 杉並区立荻窪小学校移転計画)
※下記、外観撮影はすべて筆者による。内観の撮影は見学者は不可ということなので、上記現場ブログを参考にされたい。

まず、建築の概要である。
SRC、S、RCの混構造で、
800㎡の体育館
135㎡の小体育館
148㎡の武道場
663㎡のプール
238㎡のトレーニング
89㎡の談話室
81㎡の多目的質
などが第一種低層住居専用地区の6000㎡の敷地に詰め込まれた、延べ床面積5766㎡、建築面積2895㎡の建築である。旧体育館の延べ床面積は1000㎡弱であるので、規模をかなり大きくした移転といえる。
杉並区立旧荻窪小学校だった跡地に、体育館を移転するというプロポーザルコンペ(結果)(2008年)で青木淳氏が最優秀設計者に選定された。優秀設計者には槇文彦氏、北河原温氏。
コンペ時の大きな焦点となったのは、その高さである。低層な住宅群が周囲に広がる環境の中で、青木案は最終選考に残った三案の中で最も低い5mに設定されていた。ちなみに槇案は10m、北河原案は15mである。
設計者を選ぶプロポーザル式ということもあり、コンペ時の提案からかなり印象は違う。設計意図としてコンペ時から竣工まで残っているのは、体育館を10m近く掘り下げ、高さを5mに抑えること。婉曲した楕円平面形を使うこと、という大きな構成だけで、素材の使い方や機能の配置計画などは当初とはずいぶん違うものになっている。
特徴的なのは、(アシスタントとしてプロジェクトに参加されていた宮内さんの言葉であるので、決定を下した人物による直接の回答であるとは言えないが)実施設計/設計監理レベルにおけるその決定因子を説明する際の素直さである。当日私が投げかけたいくつかの質問とその答えを以下に記しておく。
Q 何故、湾曲したガラス面を使用せず、フラットなガラスが小刻みに切り替わるギザギザした立面なのですか?
A 湾曲させると全体の楕円形の表現が強過ぎてしまうこと、且つ、小刻みに分節することで周辺のスケール感に合わせています。

A たとえばただのRC打ち放しの平坦な壁にすると、結果的に壁の大きさや吹き抜けを強調し、構造表現的になってしまいます。大きな壁でありながらも存在感の強すぎない状態、を目指していました。
Q 何故天井は50%のストライプで開け放たれているのですか?
A ストライプは意匠の判断ですが、50%の開口率はその上部に煙を溜めるためで、避難安全上必要でした。
Q この換気塔の形態はどう決定したのでしょう
A 排気量から最も大きなφの既製品を選択肢、頭を垂れているのは雨が入ってくるのを防ぐため、向きは排気なので敷地内を向けています。

Q 何故外構のブロック塀は白く塗装されているのですか
A 新設の白いブロックに合わせて既存ブロックを塗ってほしいとの要望を、向かいの住民からいただいたからです。

などである。
全体としては、
・表現的に見えないこと
・図式を消すこと
・市民に親しまれること
・コストコントロールがしやすいこと
というような意識が一貫して決定の際の判断基準となっているように思えた。
しかし、ちょっと待て、この上記した条件というのは、即ち、日本のどこにでもあるような「ありふれた」公共施設に向うときにしばしば建築家から批判的に見られる条件だと言えはしないだろうか。
しかし、私は当然建築家の作品を見るという意識でこの建築を体験したし、その期待には十分すぎるほどに応えていたので、この体育館が建築家的ではないというのはおかしい。即ち少なくとも「ありふれた」建物ではなかったといえる。何はともあれ、開館して早速市民にはよく使われており、この日も体育館の予約は一杯、ジムにも多くの人が通っていたし、プールは子どもでにぎわっていたし、建築家の建築に似つかわしくない市民活動のチラシや広告も積極的に壁面に貼られていて、より一層親近感を感じさせる。
使われている仕上げはどうだろう。GRCパネル、ガラス、アクリル、亜鉛メッキ、コンクリート打放し、コンクリート打放し+パテ処理仕上げ、薄いブルー/グリーン/ピンクの塗装、フローリング、タイル貼り、木チップが埋め込まれたモルタル仕上げの地面、芝生、薄く白で塗装された杉板、アスファルト、石垣風ブロック、コンクリートブロックと、思い返すだけでいくつかの素材を挙げることができる。これだけの規模にしてはその一つ一つの仕上げが全体性に消えることなく、それぞれの居方で存在していたように見えた。かといってその存在感を主張しているわけでもなく、植物の緑以外は薄いグレーが中心の色合いであることもあって、それぞれは連動し、限りなく自然とそこに置かれている。外構のブロックから内装、家具(西澤徹夫氏との協働)、サイン計画(菊地敦己氏と恊働)まで、コントロールしているとのことだ。

住宅地に対して低く抑えられたヴォリューム感と比較的安価な素材の選択とその使い方。
たぶんきっと、使っているユーザーサイドはこの新しく立ち上がった建築に何ら違和感を感じていないだろう。設計者は実直に、明るく、誠実に決定を繰り返しているのだ。
以上のように、少なくとも外観を見ている段階では感じていた。
しかし、地上5mの高さの建物の中に、約35m×25m×15mの巨大なコンクリートのヴォリューム(体育館)が内包されているという、プロポーザルの時点での初期設定が完遂された事実を内部に入って自らの身体で確認した後、僕はこの建築をどのように理解していいのかわからなくなった。単に素直ではない。朗らかな素材の選択と住宅地への配慮をかき消すような核心にも似た驚きが僕を包んだのである。そのスケール感は、二つの巨大なヴォリュームが交錯して生まれる青森県立美術館にすら近い。ただ、その異常さが外観からは全く分からないのである。
この巨大な驚きを生んだ初期設定は、紛れも無く、プロポーザルコンペの時点で設計者が設定したものである。
青木淳という建築家は、決定因子に対して尋常ならざる拘りを示す建築家だ。建築がどのように決定されて出来上がっていくか、あるいは、どのような決断が積み重ねられることで建築に昇華されていくか、そういうことを考えながら、自らの意図を超えながらも人間的な決定の仕方を目指していると思う。何故なら、その設計者の意図を超えた決定の仕方で作られた建築空間の質は、ユーザーにとってより自由で、主体的で、発見的で、鮮やかな振る舞いを可能にするからである。青木氏のいう「原っぱ」とはそのような振る舞いを可能にする空間のことであろう。
しかし、当然ながら何かを決定するということは意図なくしてはあり得ない。例えば、このコンペでは、建物の高さを15mにするか、10mにするか、5mにするかを「選択」するのは建築家の意図である。その意図を設計者ではなくて、設計者以外のコンピュータや、集合知や、図式を生むルールに任せて何らかの形が立ち上がったとしても、設計者以外のコンピュータや、集合知や、図式を生むルールによって建築を決定していこうと「選択」するのは設計者の意図である。だから、設計者は意図から逃れられないようなのである。
となると、どうやら意図が生まれてしまうことは諦めるしかなく、決定した意図をもう一度それをかき消す「意図」を与えることによって、ニュートラルにする必要があるのだという結論に行き着く。特徴的で表現的な決定を「+の意図」だとして、汎用で印象に残らないような操作を生む意図を「-の意図」とすると、+に-を与えて、ゼロにする、ゼロというかニュートラルな状態にする必要があるのであろう。
前述したように、プロポーザルの時点で最後まで残り続けた最も強度のある設計因子は、
・体育館を10m近く掘り下げ、高さを5mに抑えること(断面計画)
・婉曲した楕円平面形を使うこと(平面計画)
である。私がその外観と内観から感じたギャップに対する驚きは上記の設定を選択した「意図」によって生み出されていて、なるほど、この決定は相当に強度が強い。
それに対して、これも前述したように実施設計の時点で意識されていた決定基準は、
・表現的に見えないこと
・図式を消すこと
・市民に親しまれること
・コストコントロールがしやすいこと
である。比較的安価な素材の選択とその使い方や実直な決定の積上げに対する朗らかな印象は上記の設定を選択した「-の意図」によって生み出されている。
上記した二種類の決定の質は、前者が建築家としての巨大な「+の意図」であり、後者がそれを打ち消すための「-の意図」と言えないだろうか。
このような意図の+-の差異が、ここまで大きく打ち出された、徒ならぬニュートラリティを纏う建築を、僕は他に知らない。
いずれにせよ、現代に生きる建築家群の「意図」の一つの先端が、ここに立ち上がったと僕は考える。機能主義に代表されるモダニズム建築とは、この場所ではご飯を食べなさい、この形はこのように決まりましたという「+の意図」を建築に与える作業であり、そうした「+の意図」が充満した建築は本来的に人間的な空間を生み出していないのではないかという反省から設計を出発しているのが現代の建築家である、と僕は認識しているからである(青木淳が指摘するように、リノベーションによる機能の事後的な発見によっては、簡単にモダニズム建築も生き生きと息を吹き返すこともあって、そのようなニュートラリティの空間の質はリノベーションしたかのような空間の質を立ち上げることが多い)。
果して、徒ならぬニュートラリティが生み出す原っぱは、この先どのように広がっていくだろうか。
私の価値観は明らかに、この「原っぱ」にこれからも包まれている。