ARCH(K)INDY/博多/佐賀のこと |
<建築物レポート>
□ナガハマデザイン旧オフィス現オフィス

長浜地区にある、板野純、川上隆之によるナガハマデザインオフィスの旧オフィスと新オフィスを拝見。長浜地区は魚市場と外国人街が近い海沿いの地区である。旧オフィスは元々公社だった集合住宅の一室、この集合住宅の形式は縦長のロの字の平面形状で、短辺二つと長辺一つのヴォリュームは5層、残り一辺のヴォリュームは二層となっており、口の字の真ん中は両側に店舗を構える道がヴォリュームを貫通する構成となっている。老舗の寿司屋から新規のアパレルショップまでいい具合に時代とプログラムが混ざり関心するが、近く取り壊しが予定されているらしく、それにあわせて二人も事務所を移すことに。ただ、ほんの100m先への移転である。
□清星幼稚園北園舎 清原昌洋

清原さんの実質上の処女作がこの幼稚園である。住宅街の中に位置し、中庭形式でありながら、敷地外に向って積極的に開かれているため、典型的な中庭形式の建物にみられる閉鎖性は感じられない。回廊に諸室が取り巻く形式で、RCの壁柱とスチールの丸柱、SRCの梁が構造体、ほぼすべての内部の壁と天井には赤松材の小刻みなルーバーが巡る。中庭に面する諸室は連続建具によってフルオープンとできる。竣工後10年が経つということもあって、環境が空間に定着しており、大変居心地が良い。且つ、幼稚園でなくとも使いたくなるような想像力を喚起させる。どの建築家にとっても、処女作はやはり大事である。
□星のいえ 清原昌洋


清星幼稚園のすぐ隣にある、築数十年の平屋住宅を子育て支援スペース兼ゲストハウスに転用するリノベーションの計画。既存壁ラインに対して一回り小さな、曲面状の漆喰仕上げ面が既存木造架構の露出部を強調している。畳から突き出た水道管、フィレットされた畳、残された窓、丁寧に付け替えられ磨かれ、塗装し直された柱、既存の梁、上部に突き出た円形の天窓、といった要素が白い曲面によって相対化された空間である。幼稚園同様、この空間も大変心地良い。ただ、何よりも、既存よりも1mほど高さを抑えた塀の操作が特筆すべき点であり、設計者の周辺環境への敬意が感じられた。
□Papabubble 百枝優


九州に拠点を移した大学院の先輩でもある百枝さんの実作。博多天神の地下街の一角に位置し、10坪の狭い範囲にバルセロナ発の輸入飴雑貨屋と同系列のジェラートショップを併設する計画。通常デットスペースになっている地下街のテナントの天井裏の空間を活かしながら、平面的にも断面的にもリーシングスペースから「セットバック」させた家型のヴォリュームを挿入し、その床の余白は通路と同じタイルを敷いた飲食スペース/販売スペース、天井裏の余白は純白のLED証明によって抽象化され、他店舗の看板ラインと揃うように設計されている。既存の柱によって平入面と妻面を同時に見る事が許されず、前者は飴屋、後者はジェラート屋のファサードに当てられているため、全く違う二つの表情が一つのヴォリュームによって生まれている。二店舗が入居する地下街のテナントという複雑な既存のコンテクストに具体的に反応することと、一度にその全体像が把握出来ない「想像の家型」という抽象的で言語的な設計とが両立された、素晴らしい建築である。
□鍋島酒蔵 平瀬有人+平瀬祐子


古くなった文化財でもある酒蔵の精米所のギャラリーへのコンバージョンと構造補強のための計画。平面図上Y軸に伸びる開口部廻りのロの字の突き出し板がリブとして機能する二枚の鉄板がX軸上にかかる既存木造の梁を支える構造形式。聞けば佐賀大の教授のつながりからかれこれ6年ほどの付き合いの中で、細々した相談から部分的な改修まで同じ敷地内に幾つものプロジェクトが起こっているそうだ。それまでかかっていた天井が取り外され露わになった檜皮葺きの裏地への照明が丁寧である。時間と素材の対比(新しい鉄板/古い木材)によって生まれる建築の強度について考えさせられる。
<ARCH(K)INDYレポート>
上記の幼稚園の小体育館スペースで開催された。実行委員の面々は、先週実際に浜松に来てくださり、我々のプロジェクトと浜松を体験していただいた上でのレクチャーとなった。九州の建築家には、空間はあるが言葉がないという問題意識が設定されていた。それは東京のメディアとの距離が遠いから言葉がないのだということらしい。一通りプレゼンテーションが終わり、いくつか質問を頂いた。
・空間性以外のクオリティについてどう考えるか
・クライアントが求めていることは何か
・プレゼンとライブのギャップ
・北九州のような規模の地方都市での可能性
・メディア的な言説との距離感などである。総じて建築の強度をどう発信し、どう受信するかという問いだった。今目の前にある空間以外の建築における価値を知りたい、そういうことだった。空間がある、ということは、空間以外の建築の価値、それが例えば言葉だとして、言葉の価値のいずれかを知らないと空間の価値は相対的に把握することができないという意味で、言葉を知ることは必要であるが、当然言葉の獲得自体は目的たり得ない。英語と同じである。英語を使って何を話すかが英語の価値を決める。
言葉による情報発信にもいろいろな種類がある。東京のメディアに対する言葉なのか、九州の建築家たちの間での常套句なのか、海外のポータルサイトに掲載する際の英語表現なのか、施主に対する説明なのか、歴史との対話術なのか、それを同じ表現で伝えられる人もいれば、状況に合わせ言葉自体をそっくり変えることでコミュニケーションを測る人もいるが、重要なのは、自分がどの言葉にどれくらいアクセスしたいかという意識である。
同様に情報の受信にもいくつか種類がある。この日象徴的だったのは、清原さん始めアーキンディ実行委員会の面々が一週間以内に、実作訪問と言葉によるプレゼンテーションという異なるインプットを経験したことによって両者のズレが指摘されたことである。「プレゼンテーションでは綺麗に論理建ててまとめられていたが、実際はもっと泥臭い部分や人のつながりがあり、浜松を感じられた」というような意見である。ギャップがあるのはそうだが、強く言っておきたいのは、雑誌も、ツアーも、プレゼンも、それぞれ違った情報の質を持っていて、それは必ずしも情報の量で比較されるべきものではなく、本質的に優劣はないということである。私でさえ、ツアーに来てもらえればかなりの部分を分かってもらえると昨日まで思っていた節があったが、ツアーだけ経験した人が理解する我々と、プレゼンだけ経験した人が理解する我々はきっと別物でありいずれも正しいと質疑の中で考えを改めた。且つ、その違う情報の質を捉える事ができたとして考えるべきは両者の関係性である。実体験と言語の関係性である。そういう意味で、清原さん始め、九州の建築家の方々がどのような言葉を捉えるのか、楽しみである。それを知れば、少なくとも私は九州の建築の実体験と言語を両方経験し、その両者の関係性について考えることができるからである。
ちなみに、質疑でも答えさせていただいたが、私が考える建築のクオリティは、抽象的で計画的で演繹的な質と、具体的で現場主義的で帰納的な質との関係性によって決まる。その両者を関係付けさせる設計環境を用意することが何より重要である。それはほとんどそのまま、上記した言語と実体験の関係性と同義である。その環境を作る為の方法の一つが、言語や計画を生み出す場所(=設計事務所)と反応するべき現場(=プロジェクトサイト)を物理的に近づけるということであり、さらにその仕事のレイヤーに自らの生活のレイヤーを重ねることで一層両者の関係性は影響し合うだろうと私は考えている。しかしともかく私が彼らに伝えたかったのは、生活と設計と街と現場が一体となったような生き方についてである。