表現について、そして不条理への向き合い方 |
ひょんなことから、この映画を観て、終わったあと、僕は言葉という言葉を失い、打ち拉がれて、何故こんなにも打ち拉がれたのかを考えた。
ベトナム戦争を描いたこの映画は、元々は、"闇の奥"という、小説がモティーフになっているフィクションだが、フランシス・フォード・コッポラの尋常ならざる完璧主義によって、予算もスケジュールも演者も凄まじい熱量で巻き込みながら、完成された。1978年の公開である。
この映画はベトナム戦争と小説"闇の音"を題材に人間の不条理を象徴的に扱っている。この不条理に巻き込まれていった、サーフィンの波目当てに標的の村を決める米軍の将校(ワルキューレを鳴らした本人である)、子犬を守ろうとして撃ち殺されたベトナム人の妻子、せめてマンゴーを採ろうと密林に入ったら虎に襲われかけて錯乱した元シェフの軍人、カンボジアの奥地でゲリラ軍を指揮しながら原住民から神として崇められる主人公の標的である元米軍エリート、その標的を上層部の極秘指令によって目指す主人公、慰安に訪れて踊らされるショーガール。すべての登場人物が、不条理を背負う。感情としては不条理だが、映像と音響はそれを補って余在るほど美しい。
そもそもベトナム戦争自体が、米ソ冷戦の代理戦争という不条理の塊で、第二次世界大戦後の東南アジアの混乱を引きづりながら泥沼化した。周辺の北ベトナムも南ベトナムも、投入される兵士は皆、その戦いの大義がどこにあるのか、特に南ベトナム側陣営は、大義もわからぬまま、人殺しに向わざるを得ない。明確に対峙する敵/味方がギリギリわかるような近代の戦争であった。ソ連が崩壊し明確な敵が見えなくなった「資本主義社会に必要な」戦争の火種は、その後東南アジアから中東へ、不条理に作られた理由とともに移り、湾岸戦争を経て、イラク戦争ではいよいよ敵は国家ではなく「テロ」というふわふわした集団としか捉えられないほどに雲散霧消の一途をたどっているようにみえる。一体何のために人が殺されるのか。戦争はその不条理が最も際立つ人類の行為だ。
コッポラは一体何を描こうとしたのかといえば、僕はこの不条理そのものだと思う。人間の、人間が作る社会の核心にある不条理に対する欺瞞を、彼は見事に"表現"に変換した。軍需産業が儲かるから、戦争をしなければいけないとしたら、資本主義社会に生まれた時点で我々はある種の不条理を内に抱えて生きていることになる。
僕はこの映画に出て来る様々なシーンと、人物に、いちいち自分に置き換えながらみていた。
自分だったら、海岸に砲撃しながら上陸した直後、まだそこら中に砲弾の雨が降り注ぐ中で、「サーフボードを持って波(砲弾はまだ降り注いでいる海での命がけの波乗り)を確認してくるか、銃を持って村人を殺して来るか」どっちか選べといわれたらどうするか。
自分だったら、手荷物検査で箱に隠した子犬を守ろうとして不信な動きをした少女を、不信な動きをしたというだけでその場で撃ち殺すか。
自分だったら、エリート将校に上り詰められる軍人としての名誉を捨て、母国を裏切り、現地住民とゲリラ戦を展開するほどの不条理に打ち勝てるか。
そうやって、自分に置き換えて、描かれる不条理を、自分の判断と比較し続けていたら、とても疲れて、打ち拉がれたのだと思う。
コッポラの"表現"はそうして40年後を生きる僕の現実に確かな影響を与えた。
翻って、僕が生きる2015年に置き換えて考えてみると、(戦争に比べたらたいそうちっぽけなことに映るかもしれないけど)、
そもそも、若者としてこの高齢化社会に生まれた時点で、明らかに不条理だ。労働人口の数より多い高齢者をどうやって支えるのだろうか。そもそも働ける人間たちが収める税収でその数より多い高齢者を支えながら且つ国を続けるということ自体が普通に考えて不可能に近い。しかも若者の数は減る一方である。10月からマイナンバー制が導入されるようだが、これは明らかに個人事業主の税務管理の合理化によって骨の髄まで税金を吸い上げようという政府の意図が透けてみえる。しかし僕たち若者は明らかに高度経済成長の恩恵をそこかしこで受け取っているのもまた事実だ(僕も祖父母から小遣いをたくさん貰った記憶がある)。
最近施設に入った米寿を迎えた祖父はよく「俺たちは本当に良い時代を生きた、働けば働くだけ国が上向いて、今は働かなくとも年金をもらえる。」と言っていた(同時に、祖父は戦争を経験している。)。
3.11以後の原発問題にしても、帰宅困難地域に住む人達は圧倒的な不条理に巻き込まれながら、厖大な補助金に依存してきたことも事実だし、その原発で発電されたエネルギーの恩恵を少なからず僕らも引き受けていたことも事実だ(否応なく使わせられていたということだっていえるけど)。
安保法案反対のデモも各地で起こっているらしい。デモやるくらいならサザンのコンサートで投票した方が民主主義だという人もいれば、国会前のデモの参加人数を少なく見積もってメディアが報道してると偏向報道を指摘する人もいる。
あるいは、東京オリンピックに際して、新国立競技場のザハ案の白紙撤回や、佐野案のエンブレムの撤回が世間を賑わしている。例えばこんな日本の建築やデザインの状況は絶望的と嘆くし、偏向報道を批判する人もいるし、ネット民の心ない誹謗中傷とそのリサーチ力に驚嘆する人もいる。コンペに勝ったのにも関わらず、見積もりが合わないだの、パクリだので、暇なネット民とワイドショーによって世論なるものが形成され、そこに専門的な判断はなく、ただの空気によって、建築家やデザイナーの渾身の提案が無下にされる状況を見ると、建築や、デザインに携わる者としては、不条理を感じざるを得ない。(新国立競技場の問題を取り上げると、こちらの記事おける建築家・藤村龍至氏の態度は上記のどれでもなく、誠実に、淡々と、専門家として、大衆に、分かり易く、説明を尽くすというものである。)
またヨーロッパでは、中東からの難民受け入れが問題になっている。イラク戦争が引き金となって治安がわるくなったシリア系の難民が大挙して最終地点ドイツを目指して大移動を余儀なくされ、鉄条網をくぐったり、線路を歩いたり、仲介業者にお金を払って冷凍車で運んでもらったり、海を渡ったり、までして、母国を捨て、結果的に失敗したニュースが象徴的に扱われている。EU内ではどこが引き受けんのよと、牽制が続いている。積極的に融和政策を取ろうという人もいれば、受け入れをより制限した方が良いという人もいる。
TwitterやFacebookを見ていると、上記の政治的なトピックそのものを肯定的に捉えている人は少ない。安直に左/リベラルと右/保守に分けられる話ではないが、だいたいが、左の人間は右の人間に良心をぶつけて憤慨し、右は左の人間に現実が分かっていないと嘲笑を浴びせる構図が、少なくとも僕のTL上には浮かんでいる。しかし、そもそも政治的な発言自体イタいので総じてだいたい皆触れていないのが現状である。
僕たちは、こうした社会が生み出す不条理に対して、押し黙るか、憤慨するか、嘲笑するか、ただ嘆くことしかできないのだろうか。
例えば、美術の世界では、作品がより政治性を帯びることで、本来であれば美術の美術性に結びつけられるという点で勇気づけられる。
Francis Alÿsは、"The Green Line -Sometimes doing something poetic can become political
and sometimes doing something political can become poetic-"、においてイスラエルとパレスチナの国境に緑色のペンキを命がけでこぼして歩き続け、平和の境界を作ったし、
Chim↑Pomは、"Don't follow the wind"展の開催において、福島の帰宅困難地域に通い詰め、帰宅困難区域の解除まで誰も立ち入ることができないアートイベントによって原発に象徴される日本社会の不条理へコミットメントを果たしている。
Mark Bradfordは、LA近郊の下町に溢れる電柱に貼付けられたチラシやゴミを収拾、再統合し、絵画として定着させる。
皆、自らの生活そのものを、幾分の打算もなく不条理の表現へ捧げ、現代美術の本義を問う。
人間社会が大衆にもたらす避けられない不条理。それを、ただ反対するのでもなく、迎合するでもなく、嘆くに留まらず、表現の強度に昇華させること。それが、近代化以降の芸術表現に携わる者に根本的には求められている倫理感ではないだろうか。
にも関わらず、政治的な発言をすること自体、イタい空気が日本の芸術の世界に広がっているのは、宜しくない。芸術に携わるものだからこそ発言できる政治性とその政治性を引き受けるべき表現という受け皿があるはずだ(別にデモを起こせ、政府を批判しろと言っているわけではない、もし表現者でありたいのであれば、不条理から、目をそらせてはいけないのである。ということを申し上げている)。
"すべてはコンテクストである"と僕が共同主宰する403architecture [dajiba]はしばしば発言する。
現代における建築を取り巻く現状、この時代に若者として生まれ建築を学んだ自分たちの状況を、ただ嘆くのではなく、建築にとってとるに足らない些細なことや、忘れられていたこと、個人の小さな欲望、これまで建築だと捉えられてこなかったこと、そのすべてが建築をつくるためのコンテクストになりうるという、あるいは何がコンテクスト足り得るかこそへの眼差しこそが現代にとって重要であるという態度である。
もう少し大局的にみれば、これら不条理さはすべて、あらゆる表現のコンテクストとなりうるはずだ。僕がいう表現というのは、暇を持て余してネットで匿名的に誹謗中傷することでは決してないし、そのためのモチベーションは、ワイドショーのコメンテーターに対して向けられるものでもない。同時に、自分が専門家であること、表現者であることを是認するからといって、自分が生活者であることを棚に上げてはいけない。個が個に対して手紙を送るように、届けるべき現実への実感と、届けられる他者を想像しながら、言葉や、イメージや、音で、誰かに影響を与える覚悟を持って、自らの意志を表現しようと務めることである。
少なくともコッポラの表現は僕に時間を飛び越えて影響を及ぼしたわけだし、僕のこの文章もまた、誰かに届けられ、影響を与えるかもしれない。
そういえば、"地獄の黙示録"を見たのは、山口情報芸術センターYCAMであった。
YCAMでは今403で、"Think Things"という遊びと学びのための展示の空間設計で携わっていて、ちょうどその関連イベントでYCAMを訪れた時、"地獄の黙示録"のアフタートークで、映像制作集団空族のお二人が登壇され、現在撮影準備に入っている"バンコクナイツ"の紹介があった。
その空族の一人、相澤虎之助さんと、横浜のArchiship Library & Cafeで、映画"サウダージ"の予告編"FURUSATO2009"の上映会イベントに明日、参加させていただく。
"サウダージ"は、2009年に撮影された、山梨での衰退する地方都市の現状を、日系ブラジル人や地元の若者の視点から描き出すものだ(恥ずかしながらまだ観れていない)。
何故僕が横浜でのイベントにお声掛けいただいたかというと、"mieru/veja"という小さな本づくりのワークショップ"RE07/08"を企画していたからだ。そのワークショップに、参加してくれていた藤末萌さんは、今回のイベントの仕掛け人であり、Archiship Libraryの運営に携わっていて、リサーチ機関RADを共同運営されているモデレーターの榊原充大さんも、"RE07/08"に参加してくれていた。"mieru/veja"は、戦争や経済という大きな歴史の裏で地球の一番遠い場所同士を移動し続けた日系ブラジル人社会に着目したインタビュー集である。
そういうわけで、明日、9/12の横浜は、社会が作り出す不条理との向き合い方を実感する機会としたい。
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