2015年 12月 01日
La Biennale di Venezia the 15th International Architecture Exhibition 公式声明邦訳文 |
※この文章は筆者による個人見解の邦訳であり、公式な邦訳ではありません。閲覧者の自己責任で解釈してください。
<La Biennale di Venezia / Curator of the 15th International Architecture Exhibition : Arejandro Aravenaによる声明>
勝利する必要のあるいくつかの戦いが、拡張されるべきいくつかの前線が、つくられる環境の質(即ち生活の豊かさ)を改善する為に、繰り広げられています。この惑星に住むより多くの人々がよりきちんとした居住を探していて、それを達成する条件は日々刻々と厳しいものになっています。様々な試みが、経済を超えて、現実の慣習に対する抵抗や、明らかな問題に挑む努力が日常的に存在する中で、世界の複雑さに打ち勝つべくなされています。
戦争は誰も勝者を生みませんが、環境をつくる前線は活力に満ちあふれています。なぜなら建築は提案の鍵を現実において握っているからです。
これらの成功は伝えられるべき価値があります。典型的な事例として何を建築がしてきたかを共有されるべきです。そしてそれはそのような前線が広がり続ける戦いの勝利との違いを生み出すでしょう。
REPORTING FROM THE FRONTというテーマは、多くの聴衆へ向けられています。利益至上主義に仕事をする傍ら、生活の質を改善し、タフな環境化で、挑戦に直面しているようなことです。あるいは、新しい領域を広げることかもしれません。
私達は建築から学びたい。失うことに不満を漏らすのではなく、何が劇的に有効かを。私達は、共有の価値を超えて受容される個人的な利益の特権の力を何が覆すかに、どんなデザインの道具が求められているかを理解していきたい。過度な単純化、還元主義に対抗する術を知りたい。あるいは人間の条件を貫通する建築の使命を諦めたくはありません。建築がいかに新たな価値を生み出せるかに興味を持っています。均質に向う近道としての建築や、余剰の価値のための建築に代わる価値です。
私達は、このテーマを、受動的な目撃者の記録にするのではなく、彼らの言葉を実際に歩む人々の証言としたい。過酷さと希望のバランスをみたいのです。このより良い環境の構築のための戦いは、怒りでも、ロマンチックな十字軍でもありません。単なる誹謗でもなければ、不満でもなく、直感的なロッカールームでの与太話でもありません。
私達は、小さな勝利だとしてもそれに向うリスクをとるための創造性がどのような実践において発揮されてきたかをお見せするつもりです。何故なら、問題が大きな場合、1ミリの改善でもそれに関連しているからです。求められているのは、成功概念の調整です。何故なら前線での達成は相対的なものであり、絶対的なものではないからです。
私達はこのより良い環境の構築のための戦いが、皆の知識と力を要する集合的な努力であると強く認識しています。それが我々がこのビエンナーレを包括的で、話や考え、様々な背景から成り立つ経験をよく聞くものにしたい理由です。様々な背景とは、建築家や、市民社会、リーダー、各国のパビリオンといったものです。
従って、この国際建築展は、知性と直観のバランスによって、現状を脱出することを、建築から学び、注目するものになります。私達はその困難にもかかわらず(あるいはその困難こそによって)、諦めや苦しみに囚われずに、何かを提案する事例を紹介します。環境をつくることの質についての飽くなき議論を紹介します。必要性だけではなく、アクションのための部屋を用意します。
Arejandro Aravena
<La Biennale di Venezia /President : Paolo Barattaの声明>
この数年、私たちは私達の時代の象徴は市民社会と建築のミスマッチにあると言い続けています。
一方、建築は、スペクタクルな建物や、クライアントの野心と力を反映する祝祭を生産することに夢中になっています。あるいは、社会は建築に疑問を投げかけることを避け、無関心でいます。
麻痺に慣れることに対抗するスタンスとして、この数年のヴィエンナーレ建築展では、このような状況から生まれる疑問に声を与えています。
私達は私達のこのようなコミットメントを、建築の願望を生かし続けるために、加えます。
建築は公共的な希望と要求と、私的な希望と要求が出会う芸術なのです。
私的な空間をつくることを助ける建築は、同時に公共的な空間もまたつくりだします。この二つの空間は同時に生み出されます。意識的にパブリックスペースを楽しめることは、皆に開かれた良さです。社会の一員によるこの歓びは同様のことを行なう能力をもった他者の限界を示すものではありません。これは公共価値のエッセンスともいえるのです。
自由な公共空間というコンセプトを辞め、単なる量に還元された居住性能のアセスメントに置き換えることは、社会を貧困にしてしまいます。これは終わりなき、人間が貧困化する前兆を示しています。これは、私達が私達自身を、私的な領域のありふれた安息、極端な防犯への欲求の中に閉じ込めた時に起こる事態です。
公共価値は、仮に一方に明らかな需要があり、一方にはその要求を運ぶ能力がある時に、発生します。しかし、要求を生み出すことと次に出会うことの両方は、公共性と私性の両方の短所によって阻まれてしまいます。需要と供給の活発な交差点ではなく、対立の戦場を導く状況です。
巻き込まれるための拒否は、危険な道へ私達を導くリスクを増加させます。争乱に留まることは、もはや尋ねるべき疑問を知ることもなく、違う解決策を見出すこともできない方向に導きます。あるいは実現不可能な提案のためのフラストレーションを抱える嵌めになる。
これは我々が何故2008年のAaron Bestskyによる"Architecture Beyond Building"に始まり、2010年の妹島和世は"People Meet in Architecture"がコミュニティによって住むための場所としての建築を考え、David Chipperfieldは2012年にCommon Groundというテーマで建築はもはや存在せず、建築家だけが彼らの創造的な努力の中で包まれているという声明を出しました。続く2014年"Fundamentals"においては、Rem Koolhaasは今日の建築を構成する要素を調査しました。
そして今回、Alejandro Aravenaは私達を戦場へ連れ出します。もし私達がより明瞭な問い(解決策をアイデンティファイするような)を生み出すことを努めるなら、建築は本当に違いを生み出すことができるということを示してくれるでしょう。
Paolo Baratta
[翻訳元原文URL]
http://www.labiennale.org/en/architecture/exhibition/15iae.html
<La Biennale di Venezia / Curator of the 15th International Architecture Exhibition : Arejandro Aravenaによる声明>
勝利する必要のあるいくつかの戦いが、拡張されるべきいくつかの前線が、つくられる環境の質(即ち生活の豊かさ)を改善する為に、繰り広げられています。この惑星に住むより多くの人々がよりきちんとした居住を探していて、それを達成する条件は日々刻々と厳しいものになっています。様々な試みが、経済を超えて、現実の慣習に対する抵抗や、明らかな問題に挑む努力が日常的に存在する中で、世界の複雑さに打ち勝つべくなされています。
戦争は誰も勝者を生みませんが、環境をつくる前線は活力に満ちあふれています。なぜなら建築は提案の鍵を現実において握っているからです。
これらの成功は伝えられるべき価値があります。典型的な事例として何を建築がしてきたかを共有されるべきです。そしてそれはそのような前線が広がり続ける戦いの勝利との違いを生み出すでしょう。
REPORTING FROM THE FRONTというテーマは、多くの聴衆へ向けられています。利益至上主義に仕事をする傍ら、生活の質を改善し、タフな環境化で、挑戦に直面しているようなことです。あるいは、新しい領域を広げることかもしれません。
私達は建築から学びたい。失うことに不満を漏らすのではなく、何が劇的に有効かを。私達は、共有の価値を超えて受容される個人的な利益の特権の力を何が覆すかに、どんなデザインの道具が求められているかを理解していきたい。過度な単純化、還元主義に対抗する術を知りたい。あるいは人間の条件を貫通する建築の使命を諦めたくはありません。建築がいかに新たな価値を生み出せるかに興味を持っています。均質に向う近道としての建築や、余剰の価値のための建築に代わる価値です。
私達は、このテーマを、受動的な目撃者の記録にするのではなく、彼らの言葉を実際に歩む人々の証言としたい。過酷さと希望のバランスをみたいのです。このより良い環境の構築のための戦いは、怒りでも、ロマンチックな十字軍でもありません。単なる誹謗でもなければ、不満でもなく、直感的なロッカールームでの与太話でもありません。
私達は、小さな勝利だとしてもそれに向うリスクをとるための創造性がどのような実践において発揮されてきたかをお見せするつもりです。何故なら、問題が大きな場合、1ミリの改善でもそれに関連しているからです。求められているのは、成功概念の調整です。何故なら前線での達成は相対的なものであり、絶対的なものではないからです。
私達はこのより良い環境の構築のための戦いが、皆の知識と力を要する集合的な努力であると強く認識しています。それが我々がこのビエンナーレを包括的で、話や考え、様々な背景から成り立つ経験をよく聞くものにしたい理由です。様々な背景とは、建築家や、市民社会、リーダー、各国のパビリオンといったものです。
従って、この国際建築展は、知性と直観のバランスによって、現状を脱出することを、建築から学び、注目するものになります。私達はその困難にもかかわらず(あるいはその困難こそによって)、諦めや苦しみに囚われずに、何かを提案する事例を紹介します。環境をつくることの質についての飽くなき議論を紹介します。必要性だけではなく、アクションのための部屋を用意します。
Arejandro Aravena
<La Biennale di Venezia /President : Paolo Barattaの声明>
この数年、私たちは私達の時代の象徴は市民社会と建築のミスマッチにあると言い続けています。
一方、建築は、スペクタクルな建物や、クライアントの野心と力を反映する祝祭を生産することに夢中になっています。あるいは、社会は建築に疑問を投げかけることを避け、無関心でいます。
麻痺に慣れることに対抗するスタンスとして、この数年のヴィエンナーレ建築展では、このような状況から生まれる疑問に声を与えています。
私達は私達のこのようなコミットメントを、建築の願望を生かし続けるために、加えます。
建築は公共的な希望と要求と、私的な希望と要求が出会う芸術なのです。
私的な空間をつくることを助ける建築は、同時に公共的な空間もまたつくりだします。この二つの空間は同時に生み出されます。意識的にパブリックスペースを楽しめることは、皆に開かれた良さです。社会の一員によるこの歓びは同様のことを行なう能力をもった他者の限界を示すものではありません。これは公共価値のエッセンスともいえるのです。
自由な公共空間というコンセプトを辞め、単なる量に還元された居住性能のアセスメントに置き換えることは、社会を貧困にしてしまいます。これは終わりなき、人間が貧困化する前兆を示しています。これは、私達が私達自身を、私的な領域のありふれた安息、極端な防犯への欲求の中に閉じ込めた時に起こる事態です。
公共価値は、仮に一方に明らかな需要があり、一方にはその要求を運ぶ能力がある時に、発生します。しかし、要求を生み出すことと次に出会うことの両方は、公共性と私性の両方の短所によって阻まれてしまいます。需要と供給の活発な交差点ではなく、対立の戦場を導く状況です。
巻き込まれるための拒否は、危険な道へ私達を導くリスクを増加させます。争乱に留まることは、もはや尋ねるべき疑問を知ることもなく、違う解決策を見出すこともできない方向に導きます。あるいは実現不可能な提案のためのフラストレーションを抱える嵌めになる。
これは我々が何故2008年のAaron Bestskyによる"Architecture Beyond Building"に始まり、2010年の妹島和世は"People Meet in Architecture"がコミュニティによって住むための場所としての建築を考え、David Chipperfieldは2012年にCommon Groundというテーマで建築はもはや存在せず、建築家だけが彼らの創造的な努力の中で包まれているという声明を出しました。続く2014年"Fundamentals"においては、Rem Koolhaasは今日の建築を構成する要素を調査しました。
そして今回、Alejandro Aravenaは私達を戦場へ連れ出します。もし私達がより明瞭な問い(解決策をアイデンティファイするような)を生み出すことを努めるなら、建築は本当に違いを生み出すことができるということを示してくれるでしょう。
Paolo Baratta
[翻訳元原文URL]
http://www.labiennale.org/en/architecture/exhibition/15iae.html
by tsujitakuma
| 2015-12-01 12:55
| exhibition