2008年 10月 28日
原っぱ、洞窟 |
今日、建築を語るキーワードとして洞窟(伊東豊雄、藤本壮介)や原っぱ(青木淳)等、自然界の要素が挙げられている。
彼らは共通して外的要因による意思表示により自らの意図を、意図の届かない位置までドライブさせていく。
彼らは、自らの意図を自身の建築から感じさせないことで、自分にあった居場所を偶発的に見つけることを使用者に可能にし、使用者がその建築を自由に使いこなすという状況を目指しているといえる。使用者にとっての最大限の可能性を建築に与えてようとしているのである。
「洞窟」という言語を使用している伊東豊雄、藤本壮介は建築の形態そのものを現代における図式的な洞窟として構成し、文字通りその洞窟のような空間を使いこなす使用者を想定しているのに対し、「原っぱ」という言語を使用している青木淳は空間そのものを「原っぱ」にするのではなく、その設計プロセスにおいて、機能に囚われない「そこで行われることで中身が作られていく建築」の状態を「原っぱ」という使われ方の状態に置き換えている。
具体的に言えば、伊東豊雄はアルゴリズムを用い、藤本壮介は極めて図式的な、且つギリギリの秩序を建築へと展開させ、青木淳は機能を設計プロセスの前半から排除することで、自身の、意図のドライブを試み、偶発的なアクティビティの発生を目指している。
彼らの建築では、「一つに決まらない機能」が「形態」に従っているといえるのではないか。
彼らは共通して外的要因による意思表示により自らの意図を、意図の届かない位置までドライブさせていく。
彼らは、自らの意図を自身の建築から感じさせないことで、自分にあった居場所を偶発的に見つけることを使用者に可能にし、使用者がその建築を自由に使いこなすという状況を目指しているといえる。使用者にとっての最大限の可能性を建築に与えてようとしているのである。
「洞窟」という言語を使用している伊東豊雄、藤本壮介は建築の形態そのものを現代における図式的な洞窟として構成し、文字通りその洞窟のような空間を使いこなす使用者を想定しているのに対し、「原っぱ」という言語を使用している青木淳は空間そのものを「原っぱ」にするのではなく、その設計プロセスにおいて、機能に囚われない「そこで行われることで中身が作られていく建築」の状態を「原っぱ」という使われ方の状態に置き換えている。
具体的に言えば、伊東豊雄はアルゴリズムを用い、藤本壮介は極めて図式的な、且つギリギリの秩序を建築へと展開させ、青木淳は機能を設計プロセスの前半から排除することで、自身の、意図のドライブを試み、偶発的なアクティビティの発生を目指している。
彼らの建築では、「一つに決まらない機能」が「形態」に従っているといえるのではないか。
by tsujitakuma
| 2008-10-28 05:47
| architect