新国立競技場と日本人の観念、匿名性コンペ要項が発表された瞬間から、その高すぎる敷居への指摘に始まり、新国立競技場の建設を取り巻く批判は現在まで後を絶たない。
ザハ案が一等を獲得してからも、槇文彦が指摘する神宮周辺環境への景観と要求されるプログラムのアンバランスさ、解体工事ですらずれ込んだ入札、周辺地区の再開発を前提にしたとみられる高さ制限の緩和、安保法案に対する報道牽制、キールアーチのみに矮小化された見積もり高騰への批判、不確かなネット意見の拡散と炎上、など、建築界に関係するものであれば耳が痛くなるような話題が続いていた。その上で、政府は白紙撤回を決定し、Zaha Hadid Architects(以下ZHA)は、それらすべての批判へも、JOCへも、政府へも、そもそものコンペ要項すらへも真摯に答える、緻密で、丁寧で、美しい
レポートと
動画という形で声明を出し、その上さらに、再コンペへの再参加も表明した。専門家として、建築家として、圧倒的に正しく、とてもかっこ良かった。もしこのZHAの説明のタイミングが遅いという意見があったとしても、白紙撤回されるという事実確認をした上での声明であるなら、必要かどうか判断しかねる説明をするくらいであれば限りなく設計実務に時間を費やす方が、プロフェッションとして当然の振る舞いといえるであろう。当然、専門家という立場であれば、ZHAの振る舞いを批判する者はほぼいないであろうし、マスコミの報道もザハはそんなにおかしなことを言っているわけではないというところまで、理解を示しはじめたという声も聞く。
ただ、白紙撤回は覆されない。
もちろん、ザハが再び一等をとる可能性はある。だが、政府がふわふわした世論に押されて白紙撤回した自らの決定をもう一度覆してZHA(ZHAのレポートは圧倒的な論理的、技術的、意匠的説得力があったのは事実だが)を選ばせる度胸と自省心があるとすれば、の話である。ちなみに僕は、違う日本人が勝つのではないかと考えている。
しかし、いずれにせよ、コンペ要項自体が変わっているのだし、当初のザハ案からは変更を余儀なくされるであろう。同時に、当初のザハ案が持っていた動線計画や構造形式への説得力も、新案のどこかしらに尊重されていくはずである。同様に、槇文彦の景観への指摘や、ネット上の空気、首相の意向、元々の審査委員長である安藤忠雄の日本を元気にしたいという情熱、広告会社の戦略、それらすべての意見が折り重なり合って、どうにかこうにか、玉虫色の競技場が最終的に形を現すのではなかろうか。そうして、その建築の形こそを、国民は国民的建築として認識していくに違いない。
もし仮に、これらの想定が現実に起こったとすれば、責任の所在が曖昧で、たらい回し(悪いのは、設計事務所か、ゼネコンか、審査委員会か、審査委員長か、政府か、JOCか、東京都か、マスコミか、というような)の状況は加速し、国際社会からは建築家を尊重しない国として批判されるであろう。しかし、そうなる可能性が高いと僕は思う。というか、既に現実は、ほぼそうなりかけている。
私達は、こうした状況を嘆くことしかできないのであろうか。少なくとも僕は、そうは思わない。
そもそも、である。そもそも日本の大衆がその建築形状を思い浮かべられる国民的な建築には何が挙げられるだろう。仮に、自分のおかんでも分かるものだとして、思いつくのは、東京タワー、旧国立競技場、国会議事堂、フジテレビ新社屋、東京都庁、あとは清水寺、金閣寺などの寺社建築の名所くらいである。この中で、建築家が設計に携わっているのは晩年の丹下健三くらいで、しかもおかんはきっとそれらを同一人物の建築家が設計したことを知らない。建築業界的には丹下健三の代表作であるピースセンター、香川県庁舎、国立代々木第一体育館に至っては形も知らないだろう。建築家や、個人の名は国民的建築には刻まれていない。国会議事堂に至っては、コンペにも関わらず選ばれたのは建築家ではなく、官僚であるし、そのコンペ案を揉んだのも官僚であり、設計者に関しては匿名的な建築物なのである。国会議事堂のコンペ時も今回の新国立競技場同様揉めに揉めた。そもそもはドイツ人建築家のエンデとベックマンによる日比谷一体の官庁街計画の中に位置づけられた計画だった上に、その計画は見積もりオーバーで頓挫し、結局公募となったのだった。個人の責任が前面に押し出される状況自体が、八百万の神の国の日本人の観念や空気を読むことを良しとする国民性に合っていないのではないかと僕は思う。いろいろな人の意見を汲んで、できるだけ責任を曖昧にして、誰が設計したのかよくわからない状況。そういう意味では大工の歴史は、職人の師弟関係ではあるものの、建築物にその名が刻まれ周知されることは少ない。あるいは、どこまでいっても、日本における建築家は明治維新後から大工の国に輸入された存在で、1000年以上の歴史を持つ大工と比較すれば、日本における建築家の歴史としてはわずか150年であり、建築学生が受ける建築教育もその根本的な部分は西洋の歴史から連続する。あくまでも日本における「建築」の歴史はジョサイア・コンドルから始るのが僕の知る日本建築史の教育だ。
そうであるなら、日本において建築に携わるのであれば、こうした責任の所在や署名が曖昧になる日本特有の建築の状況を差異として捉え、建築のためのコンテクストとして前向きに昇華させるべきではないだろうか。少なくとも、ヨーロッパは建築家やデザイナーへのリスペクトがあっていいねと羨望の眼差しを送る必要性はどこにもなく、日本固有の建築の存在の仕方を意識すべきではないだろうか。
(昨今のヴェニスビエンナーレやプリツカー賞にみられるように、世界における現代日本人建築家の評価は事実高いが、そんなことは日本の大衆には関係ない。今やSANAAよりもザハの名前の方が有名だろう。)
ただ僕は、建築設計における専門家の存在を否定しているわけではないし、例え150年の歴史しかなかったとしても(150年でこれほど発達を遂げた建築文化もまた世界で稀であろう)建築家の追求してきた空間の強度の作り方や、都市への態度、形式性、構造的なチャレンジを否定する気はまったくない。当然、上記のような問題から日本における建築への理解が深まることは肯定的に捉えている。
しかし、建築に、設計者の名が残ることは、少なくとも日本においては、「良い建築」をつくることにおいてそれほど重要なのではないか、そうした事実を受け入れた上で建築をつくるためのコンテクストとして捉え、自らの表現に向うモチベーションにできないのだろうか、というのが、僕の意見である。
土木構築物文化がつくる九州の文脈そうした日本における匿名性と建築/都市の関係を、遅めの夏休みを取り、九州を訪れ、そこで"土木"という言葉を通して強烈に意識させられた。
ナガハマデザインの板野純さんにご案内いただき、福岡から片道三時間、白水ダム/白水溜池堰堤と呼ばれる、ダムという響きにしては小さな土木構築物を訪れた。訪れるまでの山間地域の道中では、いくつもの鉄道の橋桁と橋脚が妙に良くデザインされているのが目にとまった。それにしても相当な山奥である。石積みで作られた美しい曲面を鱗のような水が張り付きながら流れる。流水量が緻密に計算され、設計されたという。「白水溜池堰堤」は、近隣へ農業用水を安定的に供給するために作られたダムである。高さ14m、横幅87m、貯水量60万トン。こんな山奥に、このような美しい土木構築物があり、まだ現役のダムとして稼働していることに感銘を受けた。その流水を眺めるのは、近世以降蓄積され続ける日本建築の智彗を体現する日本庭園、枯山水を観ているような感覚で、曲線を露わにしたまま動き続けるその鱗模様をいつまでもみていたかった。ダムという、建築物以上に環境をどうしたって変化させてしまう構築物に架せられた社会的な使命を設計者(大分県の技師、小野安吉、当時30代)は、圧倒的な美しさへ到達させた。およそ80年前の竣工である。石工で栄えた豊後地方において石垣の技術が蓄積されていたことや、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間で公共事業投資の余裕があったことを差し引いても、ここまで人里離れた場所に、圧倒的な労力をかけてこの美しい現象を生み出した(作家ではないにせよ)設計者への敬意が溢れた。

白水溜池堰堤|撮影筆者

白水溜池堰堤|撮影筆者
土木に着目できた理由は、それだけではない、例えば、軍艦島に代表される産業遺構にしても、その時代の必要性に迫られて生まれた建造物がその建築的、社会的価値を再評価され始めているが、これらも設計者はわからないものが多い。また九州は、江戸以前から、他国との交易の前線になってきた場所である。古くは元寇に対抗するために築かれた太宰府の堤防が現在まで残り、高速道路や鉄道がその隙間を縫って走るほど、歴史と土木構築物との関係が色濃く残っている。また、現在の博多を考えてみても、空港、鉄道、都市高速、港、スタジアム、ビーチといった都市スケールのインフラが比較的コンパクトにまとまっており、土木スケールで都市を捉えた時に、その近接性が都市の特徴を一気に顕在化させる。
建築家に視点を移した時にも土木スケール、土木構築物は九州において興味深い視座を与えてくれる。代表的な九州出身(久留米)の建築家である菊竹請訓は、農地解放によって接収された土地に対するルサンチマンを建築言語に置き換え、人工地盤を追求した(スラブを浮かす、ということでいえば、徳雲寺納骨堂、久留米市民会館、スカイハウスに顕著)延長に、メタボリズムの運動体も捉えられる(カプセル/コアにおけるコアがその土木スケールの要素にあたる)かもしれない。
そして、逆説的であるが、長崎を訪れた際に絶望的な気持ちになったのだが、「建築」の解体危機である。特に近代建築。吉阪隆正設計の海星高校は既に解体工事が始っており、武基雄設計の長崎市公会堂は解体が決まっていて閉館していた後だった。

解体される海星高校|撮影筆者
しかし、白水ダムや近代産業遺産に代表される土木構築物はその設計者の署名の有無に関わらず、その構築性を維持しながら残され続けているという事実がある。
「建築」に携わりながら、例えばそのような九州のコンテクストを引き受けるためにはどうしたら良いだろうか。
都市とインテリアの架橋、建築の不在という建築旅の道中、福岡・長崎を拠点に活動する建築家、
百枝優に会った。彼は、その端緒を示しているように思われた。
九州大学芸術工学部にて土居義岳に師事しながら、若くしてその才能を建築界に知らしめていた彼は、コンペキラーなどと呼ばれ、幾度もアイデアコンペに勝っては周囲をざわつかせる存在だったが、その後進学したY-GSAでは、都市スケールでストーリーのリアリティや社会性が求められる課題に苦しんでいたように見えた。つまり、私の大学院時代の先輩に当たる。
そもそも、我々が建築を学んだ2000年代は、SDLに代表される卒業設計展やアイデアコンペが学生の間で隆盛を極め、皆こぞって"入選"を目指した時代だ。卒業設計もアイデアコンペも、フィクショナルなストーリーを前提に、建築をあたかも建ったかのように、建っても良いかのように、建ったら素晴らしいと思わせるために、「自らの考えを建築と社会に定着させるためのトレーニング」(北山恒)として教育されるべきだと今の僕は考えているが、当時の僕は、その考えにも、実現から遠いアイデアの質や構想力だけを問うその潮流にも、疑問を抱く学生だった。
百枝は、そのような状況の中で、アイデアコンペも勝ちまくっていたが、SDレビューという実施を前提にした審査会に二度入選していた。アイデアに留まらない説得力を、確かに持ち得ていた。
彼は、Y-GSAを卒業後、隈研吾建築都市設計事務所で3年間を過ごした後、故郷九州の福岡と長崎をベースに独立した。実施コンペでも幾度か辛酸を舐めているそうだ。若くして"アイデア"で名を売った彼の実作の建築的強度は、メディアや社会にまだ届いていないように思われたが、実際に作品を拝見した僕の目には、確かに連続する百枝の、建築に対する現在性が映った。そしてその現在性は、上記したような、匿名性を受け入れる日本人の観念と、九州の土木文化に通底する、都市のコンテクストを引き受けているように思われた。
それを記しておきたい。
SDレビュー2008で入選を果たした"長崎の家"は、故郷長崎での住宅プロジェクトである。特徴的なのは、傾斜に張り付く長崎の路地を彷彿とさせる、先に行くほど窄まる大階段である。彼はこの作品で、階段路地という、都市的で、土木的な要素に着目し、愚直なまでにその周辺環境を住宅の室内へ取り込んでいる。

長崎の家|図版提供:百枝優建築設計事務所
"papabubble"では、地下商店街という制限が多いコンテクストに対して、住宅風景のメタファーである切り妻屋根を巧みに挿入し、(虚構の)"空"というインテリアを超えた都市スケールを地下街に生み出すことに成功している
。
papabubble|撮影筆者
現在、長崎市街地の眼鏡橋のほど近くの角地で現場が進行中である"spectacle bridge"は、より直接的に土木スケールをインテリアへ変換させる試みだ。チョコレートショップとカフェというプログラムが同一オーナーにより運営される変則的な与件に対して、百枝が出した回答は、目の前の"橋"と"川"を手がかりに空間を構成することだった。室内は現しにされる既存のRC梁からセットバックさせた垂れ壁が作る四つの(テラスを含めると6つ)空間から構成され、セットバックされたことで生まれる部屋と部屋の間の線上のスペースの床下を抜き、アーチ構造(まさに眼鏡橋!)の合板を橋脚として架け、その上に強化ガラスの床を、まるで川を流すかのように載せている。オーナーの地元企業はこの周辺一帯のまちづくりにも着手する意図があるとのことで、この橋と川のメタファーは、提案に対する理解を明らかに補強する。

spectacle bridge|図版提供:百枝優建築設計事務所
spectacle bridge|図版提供:百枝優建築設計事務所

眼鏡橋|図版提供:百枝優建築設計事務所
ここで、住宅に埋め込まれた坂も、地下街に見出された空も、店鋪施設にまでひきこまれた川と橋も、百枝の中では一貫した手法として理解されよう。つまり、土木的で匿名的な要素を、建築を飛び越え、インテリアに持ち込むことによって、その射程を都市へ広げているのである。同時に、そうしてつくられていく建築の振る舞いは、九州の産業遺構のように、誰が設計したのかを宙吊りにするだろう。宙吊りにされて尚、使い手やその前を通り過ぎる人々の日常にフィットするだろう。何故なら、彼の身体感覚が、匿名性を帯びる日本人の観念と、都市を相手にする射程と、九州における土木構築物への信頼を、受け入れているからである。少なくとも僕は、たとえ百枝優の名がその建築の使い手やメディアに残らずとも、日本で、九州で、建築をつくることを受け入れる建築家の倫理を受け取る彼と、その建築に、敬意を持っている。その上で、彼のような建築家の振る舞いがより深く、広く、理解されることを願う。
コンペキラーと呼ばれるほどアイデアの強度を持ち合わせていること、日本人を相手に建築をつくること、独立直後であること、改修を始めとしてインテリアの仕事が多いこと、九州で建築に携わること、長崎に生まれたこと、土居義岳の歴史観に触れたこと、Y-GSAと隈事務所という建築メディア/都市に近い建築の価値を体感したこと、そのすべてが百枝がつくる建築のコンテクストである。
1970年代、原広司は、"住居に都市を埋蔵する"と記し、磯崎新は"都市からの撤退"を宣言した。戦後復興、栄光の「丹下」の万博を経て、建築家の相手は、主に、住宅と抽象空間へ移っていく。
それから40年、激動のバブル経済(=消費の海)を経て、コミュニティデザインや建てない建築家、リノベーション、DIYの回路、エレメント、ネットワーク的視点、ソーシャル、シェアといった言葉にしばしば描写されるように、僕らが生きる時代の建築家の醸す雰囲気は、どうやら都市と、建築による全体性を諦めてはいない。建築家にとって、あるいは現代建築の歴史の中で、都市の時代といって過言ないだろう。
しかし、少なくとも日本においては、そもそも都市は、建築家が「都市に名を残して」、コントロールしたり、諦めたり、どうこうする対象ではないと僕は考える(建築家が都市に向う意志は、歴史的な前提だ)。建築家の名は都市に埋もれても、その建築が建築の歴史の中で紡がれた専門性に裏打ちされた圧倒的な「建築」の強度を有し、残り、受容され、その表現を誰かに伝え、影響を及ぼす回路を作ることができるなら、「建築家」こそが、匿名性を引き受け、都市に埋蔵されていく、その可能性を僕は信じている。
こうした僕の観念は、九州の地でその蓋然性を掴んだ。