2011年 10月 23日
僕たちは、着実に未来が描けそうな土台が揃ってきていると実感できる |

「現代都市のための9カ条 近代都市の9つの欠陥」という論考が新建築2011年10月号の巻頭をどっしりと飾った。時間軸では100年以上先を、XY軸では地球全体を、本気で視野に入れた論考である。ロマンチストと揶揄されがちな、バックミンスター・フラーの有効性が超リアライズされてしまったと言えるだろう。藤原徹平氏も論考に対するレスポンスを自身のブログに書いている。連鎖を生むテキストだ。僕もこの連鎖に続きたいと思ったのでこの文章を書き始めた。
100年先に何が起こって、地球全体で何が起こっているかなんて全然わからない。だから実感できる身の回りのことをなるべく実感していくしかない、現在を生きるしかないと僕は常々考えているのだけれど、とても論理的に、僕らの世代が100年以上先の、地球全体を考えなければならないのよっていうメッセージを受けてとって、この相反する気持を僕は突き詰めようと思っている。
さて、論考の内容を簡単に追っていこう。
まず、著者が欠陥を指摘する矛先にあるダメな都市計画ってのは近代化してすぐ、一人の都市計画家が全部決めるやり方(="19世紀末-20世紀中期のモダニストによる新都市やニュータウン(単一主体によって計画された計画)")のことである。非常に狭義の近代都市計画である。その近代都市計画の批判として有名な60年代のアレグザンダー、ジェイコブスが相手にしたのはその狭義の近代都市計画で、著者は、アレグザンダー、ジェイコブズはそれ以前の「都市」「計画」は肯定的であるとしている。だから彼らは計画全部否定してるわけではなくて、我々はいささか40年も絶望し過ぎた。と。彼らのインパクトが強すぎてその頃生きてた大人たちはルサンチマンを抱えるどころか思考停止して40年間都市について批判的な検証をしてこなかったから、都市計画は40年間1ミリメートルも前進していない(ブラジルのクリチーバを除いて)。その前進していない40年を経て、前進していない都市計画によって近代都市が量産されまくってるのが今の特にアジアってことだ。アジアの量産は40年以上前の都市の作り方ってことでしかもそれはアレグザンダーとジェイコブズによって正当に批判されている出来損ないである。(後で述べるがこの批判も部分的なものに過ぎない)
なんとなく計画全部否定されて建築家なしの建築に羨望の眼差しを抱くような今の建築家が多かれ少なかれ抱えるそのニュアンスは、磯崎新による計画まるごと批判へのすり替えによってもたられたといえよう。ちなみに磯崎はこのすり替えによって建築の延命を図っているので、僕はどちらかと言えば人間的だと思うし、好意的だ。みんな、良かれと思ってやってるんだ。人間だもの。
というわけで、著者はまず、今回の論考の相手である近代都市計画の定義を狭義の近代都市計画(="19世紀末-20世紀中期のモダニストによる新都市やニュータウン(単一主体によって計画された計画)")とし、60sのアレグザンダー、ジェイコブズの批判("計画都市の樹状構造性、計画理念の思弁性、計画街区の均質性、多様性の圧殺、犯罪率の高さ、歩行移動の軽視、ネイバーフッドの軽視")はあくまで計画概念すべてに対する批判ではなく、上記の狭義の近代都市計画へ矛先が設定されていると整理した。
しかしここで、これらひと通りの60年代以降の議論は短期的、内部的だとして著者は批判する。90年以降に噴出する都市問題はどれも長期的であり、外部的であるのです。
彼らの示した短期的で内部的なメリットは有効で、都市の計画を否定しているわけではなく、むしろ肯定、改善のための理論と著者はしているのだが、そのメリットはあくまで短期であり、内部的であるという視点によって、今回の欠陥を指摘する相手、狭義の近代都市計画とそれを批判したアレグザンダー、ジェイコブズを一気に相対化してみせた。
つまりどっちも100年以上先、地球全体を考えてないっしょって。
これはとても重要な整理なので抜粋させて頂きます。
"都市はツリーではないという指摘は全面的に正しいが、仮に計画都市をセミラティスないしリゾーム上に作り得たとしても、その都市が「外部」に対して「長期」にわたってもたらす災害を解消することはできない。あるいは「都市は多様性をもたねばならない」という指摘も全面的に正しいが、仮に多様性を備えたとしても、その都市が「外部」から「長期」にわたって被る災害を阻止することはできない"
さてさて、ここから怒涛の論理展開。
90年代以降、狭義の近代化都市が量産されまくっているアジアを近代化させたのは日本であるらしい。「誰でもできる高度経済成長」というマニュアルを作り実践し、証明してみせた上に、アジア各国にODAを人道支援、災害救助ではなく、インフラに投入しまくり近代化をお膳立てした日本は、近代化させた説明責任が問われている。と。
その一例、中国は日本の20倍のスピードで近代化が進行しているので、どう考えても日本の20倍のデメリット(公害などに代表される)が発生してるはずとの見解を示した。
これはそのまま、日本の、若い世代がこれらをしっかり引き受けて説明して未来を描かなくてはいけないというメッセージとなっている。
以下そのメッセージの筆者意訳
「若い世代が生きてきたこの40年間は都市計画が「健忘症」に陥っていて麻痺ってるから、君たち若い世代はこの40年の進まなさ、あるいは近代都市の尋常ではない量産が起こっている自体に対する危機感、というか、何が起こっていて何が問題なのかという思考回路自体がないでしょ、だから私がひとまずそこらへんを教えましょう。そうしないと日本はダメな近代化を推し進めた無責任な悪国としての烙印を刻まれるから、私がこの論文書いてんだよ。今!」
立ち上がれ若者よってありうる限りの論理を駆使して西沢大良は僕達を鼓舞しているのである。
しかも、そこからどうしたらいいかも示そうとしてくれている、というかこのどうしたらいいか、こそがこの論考のメインテーマである。私たちの未来がメインテーマである。
そこからどうするか。
あくまで論理的にまっとうに考えると、近代都市計画と同じ論理構造をとっても同じ失敗を繰り返す。この論理構造は一人の人間が考えるものの考え方を肯定した理想主義である。その外側にでないといけないが、その外側にでるためにはこの論理の外側にでないといけないのだけど、考える人間はいつも誰でもどんなときも一人なので一人で考えてる限りその外側にはでられない。だから「論理的に」近代都市計画が嫌ったもの、失敗したことをひとまず肯定しようってことである。それが9カ条。要するにこの9つの欠陥を顕にして、肯定していこうってことであると筆者は汲みとった。それしか道はないんじゃないかってことである。
□9カ条その1、新型スラムの問題
前述のとおり、近代の嫌っていたとこの最たるものとしてスラム(新型スラム)を挙げている。このスラムを否定したらまたスラムが生まれるサイクルにハマるだけだからどんどん外部を求める。それが今、限界に達していて外部は宇宙まで拡大できないから長期的、外部的な視座で見直す必要がある。と。
認めるというかむしろ、近代の嫌ってたとこを肯定、保存することから始める。→異質なサブセット群として保存しよう。
ちなみに新型スラムの定義は、所謂劣悪な環境で人口密度が高い例えばインドや南米のスラムのようなイメージではなく、人口の流動性によって生まれた受動的他律的な人間が集まる場所=近代都市が唯一の生存場所となった人々があつまる場所と定義。郊外、ネカフェ難民、派遣村、ブルーシート、これらを否定しないこと、むしろ保存することが肝要である。
"都市の冗長性を唯一掌握できるのは既存の事物を保存しながら転用する時である"
近代都市における自然公園法の代わりにスラム保存法のようなものが必要とまで著者は言っている。仮に破壊するべきスラムがあったとしてもそれは再開発されるべきではなく、農地や自然にして都市の安楽死を助けるべき地帯として定義し直す必要がある。
どこまでいっても近代都市の概念を再浮上させてはいけないのである。
□9カ条その2、新型スラムの問題人口の流動性の問題
過去三世紀の都市計画は、人間がその場所に定着することを前提にしてきて、人間が移動することは無視してきた。
人口の流動性が都市を表象するとすれば、人口の定着性は集落を表象するものとしている。だから今の都市計画の都市性は、集落という幻想に惑わされた不完全版都市性だってことだ。
1920年代の都市論、田園都市、近隣住区論の近代化の乗り越えは人口の流動性を無視し、人口の定着性を前提にした都市→集落への逆戻りでしかないので、これはまたまた次の外部を生むだけであるとしている。故にコンパクトシティ化も同様にして否定されてる。これも新たなスラムを生むだけであると。(このあたり地域社会圏に適用されるとより強度が増すはずだ。)
というわけで過去三世紀の都市計画概念が侮ってきた人口の流動性を引き受け、そこから生まれる多焦点化した都市像の引受、多様性(都市レベルでの無関係性の隣合わせ)の増長を前提に都市を考えよう!
著者はひとまず、近代国家や氏本によって都市を運営するという発想は過去三世紀に成立した常識なのでそれ疑ってみれば上記した理想も現実味を帯びてくるはずだとして論考の2/9を締めくくった。
以下筆者による感想
とても身が引き締まったし、整理されたし、頼もしい大人がいてくれてありがとうという気持ちだ。
基本的に定住性ではなく流動性に着目するってことは都市それ自体を動的なものとして捉え直すということである。固定が前提ではなく、移動が前提である。
そうしたときに私たちは一つの都市、一つの場所、一つの住宅、一つの公共空間だけを考えられなくなる。人口の流動性を肯定するのであれば、都市は常に複数の要素場所と関係して動的なものの一部であるという認識にシフトせねばならない。これは都市だけではなくてすべての事物の把握の仕方に関係している。筆者は、これからの建築家や都市計画が設計しなければならないのはその動的ネットワークのことであると考えている。し、そうした価値観はインターネット以後の私たちの世代にとてもフィットしやすいものと考える。
例えば中心市街地の空き室は相互に連携して賃貸者が流動することを前提に制度を組みかえ、不動産ではなく、動産として価値を捉え直す必要がある。この動産の実現に必要なのは共有とネットワーク、つまり所有者、不動産業者間のコミュニケーションである。というか実現できればコミュニケーションが必然的に生まれる。
あるいはこれは直接我々の設計事務所のコンセプトでもあるが、マテリアルの運動体として都市を捉え、建築はその一部の、たまたま固定された要素であるとした時、我々が相手にするのは、時間を含んだマテリアルの同時多面的な設計である。
この設計をするにあたって最重要なのは、動かす目的は資本ではなく、コミュニケーションそれ自体であるということである。そこまで抽象化して初めて、自分の実感と地球と百年が同じものとして零れてきてくれるはずだ。
我々の思考回路の根底にきっとある近代都市の欠陥を思い切って肯定して、近代都市(我々の)の内側から外側へ、100年以上、地球規模の射程を持った現代都市を描こうっていうメッセージの始まりである。
あと7つ。
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by tsujitakuma
| 2011-10-23 13:09
| essay