ローカルダイアローグ02 -オルタナティブ・プラクティス-[後編] |
辻君の指摘の通り、現在の日本の状況では、ソフト→ハードの可能性は、多くの場合既存の制度の外側の関係性が前提となる気がします。要するに、既存の枠組み内では、関係性がそれだけで完結してしまい、また、関係性を外側へ連続させるインセンティブがない。そうすると、ハードに働きかけるという発想自体がなくなってしまう。むしろ、既存の枠組みや空間というハード自体がコミュニケーションというソフトを規定してしまう。
「現状の制度や法律とコミュニケーションとの相互関係」について、最も身近な例は「家族」であると思います。
「家族」は、一般的には、非公的なコミュニティであり、プライベートな空間であり、自由恋愛の延長線上にあり、自由な選択による共同体であると認識されています。しかし、この一般的な社会認識は、「生物学的な意味での異性のカップルがひとつの家に閉じこもる」という以外の選択肢をとりずらくします。この意味で、一般的な「家族」という「社会的制度」は、その構成員以外とのコミュニケーションをする自由を大きく阻害すると思います。
そして、この家族という制度は、家族法により、法的レベルで保護された制度でもあります。民法は1044条ありますが、このうち725条~881条までが親族法(婚姻、親子、親権等を定める)、882条~1044条までが相続法(相続、遺言等を定める)であり、両者を合わせて家族法といいます。このように、日本における「家族」という「制度」は、「法律で」定められています。
制度が法的レベルで保護されているというのは、なかなかわかりにくいですが、たとえば重婚は、後の婚姻は民事上取り消されるべき婚姻であり、刑事上もこれをやれば処罰され得ます。これによって一夫一婦制を「法的に」担保しています。婚姻関係にある夫が不倫をすれば、不法行為として妻は損害賠償請求ができますし、離婚の原因にもなりますから、夫が不倫をしない義務は、道徳的義務以上に「法的義務」といえます。子ども等の、保護を必要とする者は、親等に対して民事上扶養請求権を有しており、この請求権によって親の財産を差押えたりすることができますから、親が子どもを育てる義務は、道徳的義務であると同時に、「法的義務」でもあります。
このように社会的、法的にガッチリと守られた家族というコミュニティは、かなり強固であり、構成員の外部とのコミュニケーションを減少させ、外部者による構成員へのアクセスを制限します。そして、コミュニケーションを内向きに集約することが、正義であり、幸福であると考えられています。
当たり前ですが、この家族という制度は、子どもの福祉・収入のない妻の扶養の側面から見れば、かなり合理的な制度です。関係性をガチッと固めて、内部に資源を集中させるわけです。
しかし、コミュニケーションをかなり制約してしまうことも事実だと思います。ここに、性別役割分業等の非公式の制度(文化、伝統、既成概念)が加わった場合、専業主婦のコミュニケーションは信じられないほどに制約されます。
そして、このコミュニケーションは内部的に完結し(完結することこそが正義・幸福と考えられている)、外へ向かって開こうとするものでないから、ハードに作用しようとするものでもありません。
しかし、この内部で完結するコミュニケーションを打破し、外へ解放する必要性が少しずつ認識され始めているのも事実です。たとえば、昨今の男女共同参画社会の実現の社会的動きなどがわかりやすいと思います。他にも、従来は強靭な家族制度によって隠蔽されてきたDVという現象が、被害者・その支援者等により明るみになり、DV防止法の制定に結実したことは、コミュニケーションを制限されていた妻が、「市民」として外部との紐帯を獲得し、法律というハード面へ影響力を行使した例といえます。この市民としての他者との接続が、辻君の言う「なんだかよくわからないけど仲の良い」関係性に似たものだと思います。
このような動きは、大雑把に言えば、価値観の多様化、旧共同体の弱体化、情報化、個人主義化等によって引き起こされたものと考えられます。
「『なんだかよくわからないけど仲の良い』関係性が今後増えてきたとして、それが制度や法律に与える影響はどのようなものか」については、以上のように、既存の制度的・法的枠組み内の関係性以外の関係性を結ぼうとする主体が増えれば、そのような主体が制度や法律に変更を迫ることが十分に考えられると思います。
そのような主体は、結局、たとえば家族という関係性に飽き足りず、家族内の役割以外を担う意志のある主体として外部に登場します。そのような主体は、まさにコミュニケーションのための「場」を必要とし、自らのアイデンティティを主張するべく、伝統・既成概念・文化という制度に挑戦しうると思われます。
もっとも、法律については、そのような主体が多数派にならないと変わるのは難しいと思います。立法はいつでも多数決で行われるからです。この意味で、法律によって保護される家族は強固であり、それによるソフトの制約も強固です。
個人的には、家族制度についていえば、これが強固であることはひとまずよしとして、家族以外の関係性のオルタナティブを提示し続けていくことが、ソフトとハードが健全に相互作用を起こすために、重要なのではないかと思います。
[辻→伊藤④](2011年6月7日)
>関係性を外側へ連続させるインセンティブがない。そうすると、ハードに働きかけるという発想自体がなくなってしまう。むしろ、既存の枠組 みや空間というハード自体がコミュニケーションというソフトを規定してしまう。
全く同様のことを建築家の山本理顕さんが仰っています。[参考]
彼は家族という最小単位が完結しすぎている点、その家族が地域社会を媒介せずに直接国家まで繋がっている、例 えば電力やガス、交通、といった公共インフラは国が管理しています。家族という単位を国家が「抽象化、画一化」することで資本主義と結託する形で 国民を効率的に管理できるシステムが近代国家であるということです。
家族という単位はもはや多様化し過ぎて国家がその多様性を管理できなくなっています。そこで山本さんが提唱しているのが「地域社会圏」という概念です。家族、という枠組みを包含する上位レベルとしての地域社会ではなくて、「地域社会圏」という新しい枠組みの提案です。この構成員は家族でもいいし、単身者でもいいし、フリーターでもいいし、同性愛者でもいいし、独居老人でもいいし、「家族という概念と並べられて且つ排除されていた様 々な多様性」を組み込めるものです。
彼はこの地域社会圏という概念を空間=ハードによってまず表現することでソフトの変化を仮説として導きだそうとしています。
「ソフトとハードが健全に相互作用」することには僕も同意で、それはハードだけで提示してもソフトだけで提示しても全く意味がありません。建築基準法が直接建物の外形を決める場合もあるし、民法で規定された家族を表象する間接的なメディアとして機能する場合もありますが、一方通行です。基本的には法律は変えらないもの、従うものという認識が建築界全体で共有されているといって良い。ソフトとハードの影響可能性は情報技術が発達した現代においてはより高まっていると思うのですが(特に構成員規模が10万人以下程度であれば尚)、
伊藤くんは、山本さんが空間で未来への仮説(ソフトとハードの理想関係)を提出しようとしているように、法律によってある可能未来を想像するモチ ベーションはありますか?
その際は立法の多数決性を決める枠組みをもう少し細分化する必要があると思います。
[伊藤→辻④](2011年6月8日)
山本さんが空間で未来への仮説(ソフトとハードの理想関係)を提出しようとしているように、法律によってある可能未来を想像するモチベーションはあるか。
今回の辻君とのメールのやり取りを通じて、そういうモチベーションが生まれてきましたね。
もっとも、僕なんぞがこんなことを言わずとも、たくさんの政治学者や社会学者が理想のハード、すなわち制度・それを可能とする法律について語っています。
しかし、今回僕として新鮮だったのが、山本さんが空間、すなわちひとまず400人ひとまとまりの共同体とその生活空間を仮定するところです。この仮定をした場合、福祉制度・介護制度・それを担保する法律は、当然にこの共同体を前提としたものになります。今まで話してきた家族・家族法もそれに合わせる必要があります。
空間を仮定した場合、他の制度の未来像の具体性は一気に高まる気がしました。特に、400人の年齢構成を想定すれば、福祉制度はかなりデザインしやすくなるのではないでしょうか。
結局、理想の福祉制度・家族制度というハードのみを語るのは、無意味ではないけれども、現実的なオルタナティブにはなりにくいということですね。この点、建築分野が提示した地域社会圏という概念に連動して呼応する形で税制度、福祉制度、家族制度の可能未来を提示することは、具体的だし、現実的なオルタナティブとなる気がします。「ハードとソフトが健全に相互作用」する余地が高まると思います。
建築関係法や税制度については僕は全く知らないので何ともいえないのですが、
家族制度について言えば、家族概念の希薄化や相対化の実際にかかわらず(一方で感情的には家族概念への回帰も感じられる今日この頃ですが)、現在の家族法はほぼ変わらず強固な形で残っていくと思います。もっとも、地域社会圏を前提とすれば、従来の家族形態も吸収可能であるはずですね。
だから重要なのはオルタナティブの提示でしょう。たとえばスウェーデンのサムボ法などは有名です。現在の法律婚という形態以外でも、コミュニティやコミュニケーションを確保できる共同体を制度的に提示すること。
僕は辻君とも一緒に住んだことがあるし、今も友人と住んでいるのですが、このような集団の利益を制度的に保障することも考えられるのかもしれません(その必要があればですが)。
このような制度を提示した上で、果たして立法までこぎつけられるかどうかは、未知数なのではないでしょうか。しかし、たとえば一部地域で空間の設計が先行したとして、それにより事実上多様なコミュニティを含む地域社会圏といえるものが成立したような場合には、これら多様なコミュニティを前提とした制度を成立させる必要に迫られるのではないでしょうか。このとき、条例による制度設計が可能ならば、国法の立法よりはハードルが低いはずです。
法律や制度は、その性質上、実際の事実・事象に先行して成立するものではないと思います。しかし、これを提示すること自体は有意義なものです。辻君とやり取りして、これを提示していくモチベーションが生まれた気がします。
[辻→伊藤⑤](2011年6月9日)
山本さんも意識的に、空間と生活、制度、交通、エネルギー政策、福祉を考えています。
山本スタジオを経て、それらは名前で分割されていますが、そもそも密接に関わっているものだという当たり前の事実を再確認しました。専門分化の限 界が近付いているような気がします。(それは専門分化の先の、分野同士の融合とそれぞれの更なる先鋭化によって乗り越えられるだろう。)
専門分化、効率化、資本主義、そういうすでに決められていた枠組みに対する違和感を僕らは数年前からたくさん議論してきました。
家族制度にしてもそうですが、僕らには選択肢が少ないような気がします。
家族以外にも家族のような関係があってもいいし、務めている会社以外にも仕事のような枠組みに所属してもいい。にもかかわらず、多くの同世代は大 学受験や就職活動に選択肢を「主体的に」絞って生きようとしていますね。教育とメディアと環境のみによってそういう倫理が植えつけられているとい うことです。
其れ以外の選択肢には、例えば脱サラやニートやワーキングプアやフリーターなどあまり良くないニュアンスの言葉によって生き方を定義されてしまい ます。
僕はまだ独立間もないですが一年間所謂「ニート」でしたし、伊藤くんも法科大学院を卒業した今は事実上無職ですね。革命は実感できませんが、身の 回りに名付けられた物に対するオルタナティブ(無職だが充実していたり、法科大学院を出たが弁護士に即なるという道にはいかなかったり)を実践す ることで、少しずつ変化を実感する、あるいは変化それ自体になるということが可能になると思っています。そしてその時に重要なのは、自分が及ぼす 影響関係が実感できる範囲で担保されているということだと思っています。最初の浜松の話にもありましたが、オルタナティブの有効性が機能するため には自分の実感と抽象を行き来しやすい枠組みを設えるということが必要だと思います。このあたりは僕が浜松で活動する一つのモチベーションです。
このメール対談でオルタナティブの実感と実践が僕達の生きるコンセプトたりうることが分かってきました。それは分野を問いません。
さて、伊藤くんは司法試験を5月に終え、弁護士志望の同世代が就職活動に突入する中、村上龍の小説「希望の国のエクソダス」を読んで就活ではなく 留学という選択肢をとるということですが、そう至った経緯をもう少し詳しく教えてくれませんか。
また、自身の今後の展望、というかやりたいこと、といってもいいかもしれないですが、その辺り最後に語って頂ければと思います。出来れば、具体的 なものと、抽象的なものを挙げてください。
[伊藤→辻⑤](2011年6月9日)
辻君の言うとおり、僕らは決められたように大学に入り、周りは当然のようにシュウカツをして有名企業に就職していきました。
しかし、そのような道を選択した同級生たちの中で、楽しく、満足して、充足した生活を送っているという人は本当に少ない。まだ働いてもいない僕が言うのは憚られますが、どうにかして他の選択肢を探したいと思う。資本主義社会では最終的にはカネを稼がなきゃ生きていけませんから、他の選択肢といっても、たかが知れているのかもしれない。でも、少しでも、横断的、重畳的、学際的にコミュニティやコミュニケーションを実践していきたいと思うのであります。
そうすることが、自分の満足が高いということが経験的にわかってきたからです。
本当に、既存の制度を融解させるようなオルタナティブが、僕たちにはあってもいいですよね。
さて、僕は司法試験を終えて村上龍氏の本を読んだことは確かですが、それによって留学を決めたというとなんだかおおげさな話に聞こえますね。笑
しかしなんてことはない、同級生がそれこそ就職活動をする時期に、もう少し視野を広げようと、外国に行って勉強するだけです。
村上龍氏の「希望の国のエクソダス」は、僕が数年間司法試験制度の中でやってきて、そのレールから少しはみ出して留学をしようと決めるするきっかけになりました。数年の間司法試験制度の論理に従ってきた自分は、相当に視野が狭くなっていましたから、その点をブレイクスルーする勇気、既存の枠組みから少しでも離れた選択をする意志を与えられたのだと思います。
僕の今後についてですが、申し訳ないのですが、具体的なことは何も決めていません。決まっていることは留学することくらいです。
上記の「希望の国のエクソダス」の中で、
「この国にはすべてがある。しかし、希望だけがない。」
という言葉が出てきます。残念ながらというか、必然的というか、僕はこの言葉を体現するようなスタンスで生きています。望んでそうなったわけではありません。僕が子どもであったときの国や社会や大人は、僕らに希望を見せてくれなかったように思います。
しかし、自分もそれなりの年齢になった今、それでもどうにかサバイヴしなければなりません。
もっとも、このメールのやりとりで掲げられたライフスタイルやハードへの挑戦を実践することは、僕の人生のひとつの希望であり、指針となると思います。
これが実践できるよう、これからのひとつひとつの選択をしていきたいと思います。
そして、辻君のような友人たちとの関係性を、今後も継続、変化させていきたいですね。
では、どうもありがとうございました。